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【村上晃一】
1965年京都市生まれ。京都府立鴨沂高校→大阪体育大学。
ラグビーの現役時代のポジションは、CTB(センター)、FB(フルバック)。1986年度西日本学生代表として東西対抗に出場。
87年4月ベースボール・マガジン社入社、ラグビーマガジン編集部に勤務。90年6月より97年2月まで同誌編集長。出版局を経て98年6月退社し、フリーランスの編集者、記者、ラグビージャーナリストとして活動。J SPORTSのラグビー解説は98年より継続中。1999年から2019年の6回のラグビーワールドカップでコメンテーターを務めた。著書に「仲間を信じて」(岩波ジュニア新書)、「空飛ぶウイング」(洋泉社)、「ハルのゆく道」(道友社)、「ラグビーが教えてくれること」、「ノーサイド 勝敗の先にあるもの」(あかね書房)などがある。
11月25日、ラグビーマガジン創刊400号記念号発売。おめでとう。全誌の表紙が撮影された付録を見ながら、涙出そうになりました。僕が関わったのは、1987年の4月号からかな。編集長は90年8月号から。早稲田の堀越君が表紙だった。それから、97年4月号まで、約10年間編集者として関わったことになる。どの表紙を見ても、たくさんの思い出が詰まっている。2月号の表紙になった大学が、そのあとの大学選手権で優勝するシーズンが何度か続いて緊張して表紙写真を選んだ時代もあった。もちろん、ファンのみなさんにもいろんな思い出が蘇るだろう。
個人的に思い出深いのは、大西鐵之祐さんと、北島忠治さんの追悼号を編集できたことだ。故人を表紙にするのはできるだけ避けていたが、この二人だけは、亡くなったら表紙にしようと決めていた。それだけの功績を残された方だと思ったのだ。その時代に編集長ができていたことは幸運だった。
僕は、専門誌があるということは、その国のスポーツ文化の尺度だと思っている。日本ラグビーには、昭和47年から専門誌が存在した。それだけでも世界に誇れるものだと思う。そして、その雑誌が今も続いている。求める読者がずっとずっと居続けてくれたからだ。日本には、ラグビーを文章で読みたい人が何十万人も存在し続けている。頼もしいし、嬉しいじゃないか。
ラグビーマガジンを創刊したのは、当時のベースボール・マガジン社の池田恒雄社長(故人)の英断だったわけだが、創刊に奔走したのは、青山学院大学ラグビー部のOBたちである。ベースボール・マガジン社に入社したラグビーマンたちの熱意が、日本でラグビーの商業誌など無理だという常識を覆した。当時は、予算がなくて、自分の車で走り回ったと先輩に聞いたことがある。その人は、一台、乗りつぶしたそうだ。
アマチュア規定の厳しい時代は、芸能人や他のスポーツ選手とラグビー選手が対談することも禁じられていたし、少しでも商品の宣伝になるようなことに選手が関わることも厳しく取り締まられていた。商業誌だから、このあたりはどの編集長も苦労した問題だった。僕はアマチュア時代から、アマチュア規定撤廃(95年)の時期も編集長だったので、両方を実感できた。毎月のようにアマチュア問題で苦労していたのが、突然、なんでもOKの時代になったのである。日本ラグビーが守っていたものって、いったいなんだったんだろうって思ったなぁ。
専門誌だから予算が潤沢にあるわけではない。編集部員も必要最低限の人数だから、個々にかかる負担は大きい。好きでなければ続かない仕事である。ラグマガを支えた歴代の熱い編集者たちと、この雑誌を支えた関係者、そして読者のみなさんに感謝したい。愛読者となった今の素直な気持ちです。
いつまでも書き続けそうなので、このへんで。今月号も読み応えのある記事が多い。松瀬学さんのスクラム言論、面白い。全表紙が紹介されている付録には、平尾誠二さんが中学の頃、発売日に本屋さんでラグマガを買い、むさぼり読んだエピソードも。