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ラグビー コラム 2024年5月20日

矢富勇毅さんノーサイド・トークライブ

ラグビー愛好日記 by 村上 晃一
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519日の夜は、高田馬場ノーサイドクラブで矢富勇毅さんのトークライブの司会をした。ノーサイドライブは85回目だった。矢富さんは、京都の西陵中学でラグビーをはじめ、京都成章高校、早稲田大学、ヤマハ発動機ジュビロ(現・静岡ブルーレヴズ)、そして日本代表、サンウルブズなどでプレー。持ち前の運動能力の高さ、突破力を武器にスクラムハーフの型にとらわれないスタイルで常に第一線で活躍してきた。

 

511日には、京都の清華園で同じく今季限りで引退する田中史朗さん(NECグリーンロケッツ東葛)のトークライブがあった。2人は京都の別々の中学にいたが、合同合宿で中学1年生の時から知り合っている。矢富選手が大学でポジションをSHに絞ってからはライバルとして切磋琢磨してきた。会場は田中さん、矢富さんともに告知したその日に予約で満席。ファンの皆さんが話を聞きたいラグビーマンだということを再確認した。

 

矢富さんには現役時代の思い出をたっぷり語ってもらうはずだったが、恩師の清宮克幸さんのこと、坊主頭のことなど面白エピソード満載で会場は爆笑の連続。頭髪はバリカンで0.5ミリに整えているのだが、2種類持っていて新しく買ったほうは試合日に剃るバリカンと決めていた。最後の試合となった55日のブレイブルーパス東京戦前のエピソードを聞かせてくれた。「バリカンに感謝しようと思って、最後の試合は両方使ってみたんですよ。そうしたら、両方0.5ミリのはずなのに、ちょっと長さが違うんです。あれ?頭のこっちが重いやんって」。大学時代からずっと自分で刈っているので、0.01ミリくらいの差に気づくようになったそうだ。これを楽しそうに話す矢富さんが面白い。

 

引退の理由については複雑な胸中を語ってくれた。チームは来季もプレーしてほしいという意向だった。本人もいまのラグビーに適応できていると感じていた。40歳までやると宣言もしていた。それでも引退を表明したのは、将来コーチになると考えるなら早めに経験を積み始めた方がいいと考えたからだ。「コーチは経験が大事です。みんな失敗をしながら成長する。あと1年プレーして10年の経験をするには、50歳までかかる。えっ、となって」。また、成長を続けるチームのなかにあって、「これから伸びていくわけではない自分がいること」への疑問もあった。150試合出場(46日、三重ホンダヒート戦)を果たした週に引退を決めたという。

 

すぐに早稲田大学、ヤマハ発動機ジュビロの恩師であり、「ラグビー選手としての僕をすべて作ってくれた人」という清宮克幸さんに電話した。「なんで?」という反応が意外だったという。「お疲れさん」と言ってくれるのかと思っていたからだ。実は150試合出場のお祝いパーティーを仲間が開催してくれた。その時はチームメイトには引退のことは話していなかった。そのとき、サプライズのビデオメッセージに清宮さんが登場し、「お前はまだできる」と話した。動画の収録は矢富さんが清宮さんに引退を告げる前に行われていた。「そういうことだったのか、清宮さんはやってほしかったのか、失敗したと思いました。僕は清宮さんの言う通りに生きていきたいのに」。この言葉を聞いた瞬間、涙腺が緩んだ。なんという師弟愛だろう。

 

この日の矢富さんは、お客さんと右手で握手ができなかった。引退試合の前半に右手の指を骨折し手術をしたからだ。試合中は痛くてボールをパスするのが困難だった。でも、どうしてもプレーを続けたかった。リザーブに11歳年下の弟・洋則選手がいたからである。「一緒にプレーしたかったんです」。首脳陣に知られると交代させられるので黙って続けた。「頑張ったのに、なんと僕と弟が入れ替えだったんですよ(笑)」。試合後のセレモニーでは、清宮さんのサプライズ登場に号泣した。

 

そんな感動的な話をたくさんしつつ、「現役続行か、指導者の道か、そしてもう一つ選択肢があったんです。お笑い芸人もワンチャンあるんじゃないかと。3%くらい、まだありますよ」(会場・爆笑)。トークライブの最後、矢富さんはファンのみなさんへの感謝の言葉を述べて涙ぐんだ。中学時代から数えれば27年にわたる現役生活だった。次のステージでの活躍に期待したい。2週続けて、笑えて泣けるトークライブの進行役ができて幸せだった。ここしばらく、トークライブのレポートはInstagramに記していたけれど、長文はこちらのほうが便利なので、また書きますね。

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村上晃一

村上 晃一

ラグビージャーナリスト。京都府立鴨沂高校→大阪体育大学。現役時代のポジションは、CTB/FB。86年度、西日本学生代表として東西対抗に出場。87年4月ベースボール・マガジン社入社、ラグビーマガジン編集部に勤務。90年6月より97年2月まで同誌編集長。出版局を経て98年6月退社し、フリーランスの編集者、記者として活動。

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