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モーター スポーツ コラム 2021年12月21日

さようなら、豊さん

今日も今日とてプッシュ&ルーズ by 高橋 二朗
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ニッサン/ニスモの活動に大きな貢献を残してきた鈴木豊氏(右) 

ボクにとって彼は、モータースポーツ界にあって珍しい紳士だった。
背が高くて痩身に見えるが、夏などショートパンツから覗く脚が思いのほかしっかりしていたのを思い出す。われわれメディアに対するコメントは常に穏やかで言葉を選んでいた。決して多くは語らない。言葉を荒げる様など見たことがない。レースで勝った時、チャンピオンに輝いた時、嬉しさを爆発させていても良いのに、とても控えめな仕草が彼のひととなりを現していた。

日産モータースポーツインターナショナル(NISMO)のレース部長であり、SUPER GTのNISMOチーム監督の鈴木 豊さんが逝去された。誰からも「豊さん」と呼ばれていた。それだけでも彼の存在を示している。

20年も前のこと。フェアレディZが(Z33)が発表、ラインオフされた。発売と同時に出版された別冊の取材スタッフとして片山 豊、元アメリカ日産社長のインタビューのためにNISMOの大森の旧社屋を訪ねた。レースデビューを目前に控えて、建物内の奥まった一室で最終的な開発が進められていた。そこに技術部モータースポーツグループの豊さんが居た。初対面だった。はにかんだように微笑んで会釈してくれた。その隣の部屋では、アメリカ日産のIMSAプロジェクトで空力のスペシャリストとして活躍された鈴鹿美隆さんがスケールダウンされたZ33の空力モデルを製作していた。

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思い出して欲しい、Z33のレーシングバージョンは、アメリカ市場を一番意識したGTカーだった。アメリカ日産の方針転換でアメリカのレースシーンには殆ど登場しなかった。そして国内のGT300クラスへ参戦。もともとFIA-GT規定、海外を主戦場として開発されたので左ハンドルとなっていた。その車両の開発の責任者が豊さんだった。サーキットエンジニアとしてR390で参戦したルマン24時間レースでは3位を獲得している。その後はGT500クラスのチーフ開発エンジニア、監督も兼務して来た。

今年、闘病生活となり、シーズンの当初はエントリーリストの監督に豊さんの名があったがサーキットで彼の姿を見ることはなかった。夏頃には快方に向かっていたと聞く。しかし、12月19日に帰らぬ人となってしまった。直前に来シーズンから【Z】 がSUPER GTにカムバックの発表があった。その勇姿を見ることなくこの世を去るのは、無念だったろう。享年56歳。若過ぎる。

このエッセイが、今年最後の回となります。
12月26日の深夜0:00よりSUPER GT 2021の総集編がオンエアされます。
大逆転でチャンピオンを獲得したTGR Team au TOM’Sの皆さんとトークショーを展開します。ご覧ください。

それでは、皆さん良いお年をお迎えください。

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文:高橋 二朗

高橋 二朗

高橋 二朗

日本モータースポーツ記者会。 Autosport誌(英)日本特約ライターでもあり、国内外で精力的に取材活動をするモータースポーツジャーナリストの第一人者。1983年からルマン24時間レースを取材。1989年にはインディー500マイルレースで東洋人としては初めてピットリポートを現地から衛星生中継した。J SPORTSで放送のSUPER GTのピットレポーターおよび、GTトークバラエティ「GTV」のメインMCをつとめる。

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