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サッカー フットサル コラム 2024年12月27日

世界の大空へと羽ばたく稀有な才能。神村学園高校・名和田我空が携える「サッカーで生きていく」覚悟 【NEXT TEENS FILE.】

土屋雅史コラム by 土屋 雅史
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神村学園高校・名和田我空

父も、7歳上の兄も、4歳上の姉も、サッカーをやっていた。「生まれた時からサッカーは身近にありましたね。3歳ぐらいからボールを蹴っていたみたいです」。幼いころから、もう名和田我空の進むべき道は決まっていたのかもしれない。

小学校1年生の時に、地元の都城市に居を置く木之川内サッカースポーツ少年団へ入団。本格的にそのキャリアをスタートさせる。「小学校の監督がボール扱いを教えてくださったので、自分にとっての恩師だと思います。当時はとにかくドリブルの練習をやっていました」。ただただボールを蹴ることが楽しかった。

憧れの選手は川崎フロンターレの小林悠。Jリーグの舞台でゴールを獲り続ける姿に、自分の未来を重ねる。中学進学時はいくつもの選択肢があった中で、鹿児島の強豪・神村学園中等部への入学を決断。きっかけは“14番”の存在だった。

「まず『日本一になりたい』という想いがあったのと、ちょうど中学3年の時に高橋大悟さんがプロに行ったので、この学校に進むことが一番プロに行っても活躍できる近道かなと思いましたし、サッカーを見ていても本当に魅力的だったので、神村学園 を選びました」

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「あとは一番最初にオファーを戴いたというのも大きかったです。他のところからも話は来ていたので、いろいろと迷うところもあったんですけど、やっぱり『サッカーで生きていきたい』という想いが強かったので、決断しました」。12歳で下した選択は、既に『サッカーで生きていきたい』という想いがその中心を貫いていた。

初めて親元を離れて生活することとなった1年時は、なかなかスタメンを獲るまでには至らなかったものの、サッカーに対する情熱は揺らがなかった。「中学1年生でホームシックになる人も多いんですけど、自分は全然そんなことはなかったです。寂しかったですけど、帰りたいとは思わなかったですね。親も『サッカーで生きていきたいんだったら、それぐらいのことはしないといけない』という感じだったので、自分の心も強く持てていたのかなと思います」

神村学園で過ごした6年間を、陰からサポートしてくれた両親への感謝は尽きない。「寮生活となると心配だと思うんですけど、一番サポートしてくれたのは両親なので、感謝しています。寮のごはんの1日3食に“プラスアルファ”があって、親が手作りの“ゴハンのおとも”になるようなおかずを冷凍して、ジップロックにまとめて送ってくれるので、それが一番ありがたいですね。自分は牛丼が一番大好きです(笑)」。そう言って浮かべた笑顔には、ごくごく普通の高校生らしさが滲む。

中学2年生に進級するとレギュラーポジションを掴んだが、コロナ禍に見舞われたことで多くの大会が中止に。ただ、3年時はキャプテンとエースナンバーの14番も任され、夏の全国大会で見事に優勝。このころになると、名和田の名前は広く知られるようになっていく。

中等部卒業後はそのまま神村学園高等部に進学。1年時から10番のユニフォームを渡されたが、自身の思い描いていたような時間を送れず、思い悩むことも少なくなかったようだ。

「中等部の3年生の時に何度かプリンスリーグに出場させていただいて、そういう意味で高校生と接点があったので、よくコミュニケーションは取れていたんですけど、中学校と高校ではまったくサッカーが違って、結果もなかなか出なかったですね。自分には夢があるので、モチベーション自体は下がらなかったですけど、1年生の時は一番うまく行かなかった1年間でした」

そんな名和田を支えてくれたのは、2人の偉大な“先輩”からのアドバイスだった。

「期待されることは嬉しいことですし、注目されることはありがたいことなんですけど、それと同時にプレッシャーもあって、本当に苦しかった時に、塁さんと師王さんが『1年生の時はオレもそうだったよ』みたいな感じで話してくださって、それが一番自分の心の支えになりましたね。2人は本当に大きな存在でした」

キャプテンとしてチームを牽引していた大迫塁(現・いわきFC)と、エースストライカーとして得点を義務付けられていた福田師王(現・ボルシア・メンヘングラートバッハ/ドイツ)。絶対的な存在だった彼らから送られる激励は、1年生の10番をいつでも勇気付けてくれた。

名和田は2年時から“14番”を託されてきた。高橋も大迫も背負ってきた、神村学園にとって特別な番号。まだ付け始めたばかりのころに、その重みを語っていた言葉を思い出す。

 

「最初にもらった時は素直に嬉しかったですけど、チームを勝たせるのがエースナンバーの仕事だと思うので、神村学園の14番を背負っている以上は、チームを引っ張って、勝利に導きたいです。橘田健人さん(川崎フロンターレ)や大悟さん、塁さんとプロになっている選手がこれまで付けてきた番号なので、重みというのは凄く感じますし、背負えていること自体が凄く光栄なことなので、自分なりの14番像を作っていきたいです」

最高学年となった今シーズンは、大迫と同様に“14番のキャプテン”として、チームを先頭に立って引っ張り続けてきた。だが、夏のインターハイでは決勝まで勝ち進んだものの、昌平高校に逆転負け。中学3年生以来となる日本一には、あと一歩のところで届かなかった。大会後に厳しい表情で口にしていたことも印象深い。

「正直2位が本当に悔しいなというのは凄く感じました。来年や再来年になったら、2位のチームのことはみんな忘れていると思いますし、それこそ記憶という意味では1回戦負けも2位も変わらないので、『選手権では1位を獲らないと意味がないぞ』ということはみんなで言っています」

だが、現実はそう甘くない。11月17日。選手権鹿児島県予選決勝。タイムアップのホイッスルが鳴ると、名和田はピッチに仰向けに倒れ、両手で顔を覆う。後半終盤に鹿児島城西高校に奪われた1点を跳ね返せず、まさかの敗戦。高校最後となる冬の全国の舞台に立つことは叶わなかった。

この1年は常に周囲からの注目にさらされてきた。それこそプレミアリーグのアウェイゲームに行けば、試合後の名和田のところにはサインを求める人たちの長い列ができ、1人1人に丁寧な対応を続ける光景も、強く記憶に残っている。

その中には自身もサッカーをしているであろう、子どもたちの姿も多くあった。「自分も小さい頃は高校サッカーに夢を与えられたからこそ、次は自分たちが夢を与える立場だと思っているので、いろいろな人を魅了したり、小さい子たちに夢を与えたりするためにも、高校生として振る舞いもきちんとしないといけないと思ってきました。やっぱり小さい子たちに声を掛けられるのは嬉しいですね」。キラキラした視線を向けてくる子どもたちの眼差しが、小さくないモチベーションになっていたことは想像に難くない。

来季からはガンバ大阪に入団し、プロサッカー選手としての人生を歩み出す。入団会見の席上で名和田は力強く言い切っている。

「1年目からまずは二桁得点を狙って、そこを目標に頑張りたいと思っていますし、もちろん開幕戦から出る気持ちで頑張っていきたいです。自分には日本代表になってワールドカップで優勝したいという大きな目標があるので、そこを達成するためには『1年目だから』とか言っていられないですし、成長欲を持って1年目からどんどんいろいろなものにチャレンジしていきたいです」

世界の大空へと羽ばたくためのポテンシャルは十二分に有している。あとはそれをよりレベルの高いステージで解き放つだけ。「サッカーと生きていく」覚悟を携えた名和田我空の未来には、誰もが期待したくなるような無限の可能性が広がっている。


 

文:土屋雅史

土屋 雅史

土屋 雅史

1979年生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。早稲田大学法学部を卒業後、2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社し、「Foot!」ディレクターやJリーグ中継プロデューサーを歴任。2021年からフリーランスとして活動中。

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