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1979年 第2回ワールドユース大会はアルゼンチン代表が優勝 花束を持つマラドーナ
FIFA U-20ワールドカップがアルゼンチンで開幕している。かつての「ワールドユース選手権」である。
この大会は日本にとっても大きな意味を持つ大会だった。そんな視点から、この大会の歴史を振り返ってみよう。
第1回大会が開かれたのは1977年。いまから46年も前のことだった。
大会開催を提唱したのは、1974年にFIFA会長に就任したばかりのブラジル人ジョアン・アヴェランジェ氏だった。
それまで、FIFA会長はすべてヨーロッパから選ばれていたが、アヴェランジェ氏はブラジルの実業家で、1952年のヘルシンキ・オリンピックに水球選手として出場経験があるオリピアンでもあった。
第2次世界大戦後、ヨーロッパ大陸でも選手やクラブはすでにプロ化していたものの、現在では考えられないことだが、各国協会やそれを統括するFIFAはまだまだアマチュア的な団体だった。アヴェランジェの前任のFIFA会長だったサー・スタンリー・ラウス(イングランド)は職業が教師で、「対角線式審判法」を考案した有名なレフェリーだったが、あまり金儲けには興味を持たない人物だった。
しかし、実業家であるアヴェランジェはサッカーの、そしてワールドカップという大会の商業化を推し進めていった。
そして、アヴェランジェ会長はヨーロッパ、南米以外の大陸でのサッカー振興のために20歳以下の選手による世界大会を提唱した。FIFA会長選挙ではヨーロッパ以外の大陸からの支持を受けて当選したため、そうした国々でのサッカー振興に力を入れたのである。
そして、世界的な企業であるコカ・コーラ社をメインスポンサーに付けて20歳以下の世界大会が実施された。その後、大会にメインスポンサーを付ける、いわゆる「冠大会」という形の大会形式が一般化するが、「ワールドユース」はその最初期のものだ。
それが、1977年にチュニジアで開催された「第1回ワールドユース大会」だった。
開催地として北アフリカのチュニジアが選ばれたのも、アジア、アフリカ重視の姿勢の表れだった。また、大会名が「選手権(チャンピオンシップ)」ではなく「大会(トーナメント)」となっているのは、まだ全世界規模の予選が行われていなかったからである。各大陸の年代別選手権の上位チームなど16チームが選ばれて第1回大会が行われた。
そして、第2回大会の開催国としては、当時は“サッカー後進国”だった日本が選ばれた。
当時の日本では、サッカーはまだまだマイナー競技。1968年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを取ったものの、その後はオリンピック予選にも勝ち抜けず、ましてアジア・オセアニア枠が合計で1つだけだったワールドカップ出場など夢のまた夢という状態だった。国内のトップリーグ、日本サッカーリーグ(JSL)の会場にも閑古鳥が鳴いていた。
そんな時代に20歳以下とはいえ、世界の強豪国が集まる世界大会が開かれたのだ。
そして、何と言っても特筆すべきは日本で開かれた第2回ワールドユース大会には、20世紀を代表するスター選手となるディエゴ・アルマンド・マラドーナが出場したのだ。
アルゼンチンは前年に地元で開催されたワールドカップで優勝していた。マラドーナはすでに1977年2月には16歳で代表デビューを果たしていたが、セサール・メノッティ監督はワールドカップ本大会直前にマラドーナをメンバーからはずしていた。だが、1979年の夏にヨーロッパに遠征したアルゼンチン代表では、マラドーナはすでに中心選手として活躍して世界から注目を集めていた。
そのマラドーナが、日本にやって来ることになったのだ。
U-20アルゼンチン代表は大宮公園サッカー場(現在のNACK 5スタジアム大宮)で行われたグループリーグでインドネシア、ユーゴスラビア、ポーランド相手に3連勝。その後も、アルジェリア、ウルグアイを破って決勝に進出した。
東京・国立競技場での決勝戦には5万2000人の大観衆が詰めかけ、アルゼンチンはソ連を3対1で破って優勝を遂げた(過去最多の6回の優勝を誇るアルゼンチン。その最初の優勝が日本大会だった)。
マラドーナやラモン・ディアス(Jリーグ初代得点王。現アルヒラル監督)のテクニックは日本中のサッカーファンに大きな衝撃を与えた。
そして、決勝戦で5万人以上の観衆が集まったことで「ワールドユース」という大会は軌道に乗った。それまでアヴェランジェ会長の肝煎りで始まったこの大会について懐疑的だった国々も、この大会に力を入れるようになった。
つまり、第2回日本大会の成功はアヴェランジェ会長の権威を高めるもので、会長自身にとっても大きな意味を持つものだった。そのため、アヴェランジェ会長はその後も日本でのサッカーの発展をサポート。その後2002年ワールドカップの日本開催も推進した(もっとも、韓国との招致合戦の最終段階では“会長頼み”だった日本は窮地に立たされることになるのだが……)。
第2回大会の成功によって軌道に乗った大会は、第3回大会(1981年、オーストラリア)からは「ワールドユース選手権」の名の下で行われるようになった。そして、1991年のポルトガル大会の決勝戦はリスボンのエスタディオ・ダ・ルス(ベンフィカのホームスタジアム)で行われ、12万7000人もの観衆を集めた(ルイス・フィーゴなどを擁したポルトガルが2連覇を達成)。
しかし、日本は第2回大会には開催国枠で出場したものの(グループリーグ最下位)、その後はアジア予選(アジアユース選手権)を勝ち抜けず、日本がこの大会に戻ってくるのはJリーグ開幕後の1995年カタール大会を待たねばならなかった(中田英寿を擁する日本は準々決勝に進出し、ブラジルに1対2で惜敗)。
日本が大きなインパクトを残したのは1999年のナイジェリア大会だった。
小野伸二や稲本潤一、小笠原満男、遠藤保仁、高原直泰、中田浩二、本山雅志といったいわゆる「黄金世代」が中心の日本代表。監督はフル代表監督のフィリップ・トルシエが兼任した。トルシエ監督はナイジェリアを含むアフリカ諸国で活躍した指導者で、アフリカ事情に精通していたことも日本の後押しとなった。
ラウンド16ではPK戦の末にポルトガルを破った日本は、その後、メキシコ、ウルグアイに完勝して決勝に駒を進めた。だが、決勝で対戦したのはシャビ・エルナンデスを擁する強豪スペインだった。
しかも、日本はエースの小野を累積警告による出場停止で欠いており。さらに開始3分足らずでGKの南雄太がオーバーステップの反則を取られて、5分に間接FKから失点。日本は結局0対4で完敗を喫したものの、FIFA主催の世界大会で史上初めて決勝進出を果たしたのだった。
その後も、日本の若手選手はこの大会で経験を積んでフル代表によるワールドカップを戦い、またヨーロッパのクラブで活躍するようになっていった。日本のサッカー界にとっては、なくてはならない大会がこのU-20ワールドカップなのである。
文:後藤健生
後藤 健生
1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。64年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、「テレビでCLを見るよりも、大学リーグ生観戦」をモットーに観戦試合数は3700を超えた(もちろん、CL生観戦が第一希望だが!)。74年西ドイツ大会以来、ワールドカップはすべて現地観戦。2007年より関西大学客員教授
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