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アブラモビッチ
ドイツ・ブンデスリーガ2部のシャルケのユニフォームから「ガスプロム」の胸広告が消え、イングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドはアエロフロートとのスポンサー契約を解除した。そして、プレミアリーグ、チェルシーのオーナー、ロマン・アブラモビッチがクラブを売却することも正式に発表された。
また、北京パラリンピックではロシア、ベラルーシ両国選手の出場が認められないこととなった……。
サッカーの世界から、スポーツの世界から、「ロシア」が消えていく。
その中でも、長期的に大きな意味を持つのはアブラモビッチによるクラブ売却のニュースではないだろうか。
アブラモビッチは隣国ウクライナに対して侵略戦争を仕掛けた張本人であるウラジーミル・プーチン大統領とも近いといわれるロシア人の大富豪で、英国議会ではアブラモビッチに対する制裁が論じられており、資産凍結ともなればクラブの経営にも大きな影響を与える。
そうなる前にクラブを売却することがクラブのためになるというのが表向きの理由だ。また、「アブラモビッチが売却益をウクライナの犠牲者救済のために寄付する」とも伝えられているが、実際のところは「制裁を受ける前に資産を出来る限り現金化して資産凍結されない安全な場所に移しておこう」というのがアブラモビッチの本音だろう。
アブラモビッチは1991年のソビエト連邦崩壊の後、石油取引でのし上がった大富豪だ。計画経済だったソ連時代は、国営企業がロシアの経済を独占してきた。そして、共産党政権が倒れて資本主義化された後、どさくさに紛れて国営企業の利権を手に入れることで巨額の富を手にした人たちがいた。それが新興財閥いわゆる「オルガルヒ」であり、アブラモビッチもその1人である。
1990年代のロシアの経済は大混乱に陥った。政治的にも不安定化が予想された。そこで彼らが手にした「富」を将来的に保全するためには、資産をロシア以外の国に移動させておく必要があった。その投資先のひとつがフットボールだったわけだ。
実際、ロシアは21世紀に入るとプーチン大統領の下で安定を取り戻したのだが、そのプーチン自身の暴挙によって西側諸国から厳しい経済制裁を受けたため、今後、経済的に破綻することも予想される。こうした事態に備えるために、アブラモビッチは資産を分散させたのだ。
ソ連が崩壊して「オルガルヒ」が台頭してきたのと同じ1990年代前半に、ヨーロッパのサッカー界も大変動期を迎えていた。
有料テレビのコンテンツとして巨額の放映料が流入し始めたヨーロッパのサッカーがビッグビジネス化し始めたのである。
ヨーロッパのサッカーは、それまでは選手や監督は「プロフェッショナル」であっても、クラブ経営や協会の運営などはアマチュア時代とそれほど変わってはいなかった。
イングランドなど伝統国では各地方の有力者、資産家がポケットマネーでクラブを経営していたのだ。サッカービジネスで儲けようなどという気持ちではなく、一種の社会貢献でもあり、また彼らの名誉欲を満たすための投資だった。
従って、イングランドのクラブは、その財政力では実業家などの大富豪が巨額の投資をしていたイタリアのビッグクラブに敵わなかった。また、スペインでは1930年代からフランシスコ・フランコ総統の独裁が続いており、西側から制裁を受けて経済的に苦境に立たされていた。そんな中で、サッカークラブは選手を売却することによって外貨収入が得られたため、クラブ自身が同国経済の中で巨大な存在となっていた。
いずれにしても、ヨーロッパのサッカーは早くから巨額の利益を生み出す投資対象となっていたアメリカのプロ・スポーツとは事情がまったく違ったのだ。
1993年に日本でJリーグが発足した当時、世界第2の経済大国だった日本の巨大企業がバックに付いたJリーグクラブの経営規模はヨーロッパのサッカークラブと遜色ないものだった。だからこそ、Jリーグクラブはヨーロッパのクラブと競合しながら、ブラジル、アルゼンチンの現役代表選手と契約することができたのだ。
ところが、テレビ放映権料の高騰をきっかけにヨーロッパのビッグクラブ、メガクラブの経営規模は指数関数的に上昇していった。
旧共産圏の「オルガルヒ」、中東の石油利権を握る王族、あるいはアメリカ合衆国の投資家がヨーロッパのサッカー界、とりわけ人気が高く、スタジアム環境などが整っていたイングランドのビッグクラブに投資を始めた。
こうして“胡散臭い”ビッグマネーがサッカー界に流入し始めるのだ。そんな投資家の中でもいち早くイングランド・プレミアリーグに目を付けて、2003年にチェルシーを買収したのがロマン・アブラモビッチだった。
アブラモビッチがサッカーに手を出したのは、もともとサッカー好きだったからでもある。
サッカービジネスに手を出した大富豪や石油王は数多くいるが、アブラモビッチほど足繁くスタジアムに通ったオーナーはいないのではないか。スタジアムで観戦するアブラモビッチは、たしかにゲームを楽しんでいるようだった。
念願かなってチャンピオンズリーグで優勝し、さらにFIFAクラブ・ワールドカップも獲得。スタンドのアブラモビッチは満面の笑みをたたえていた。
ところが、そんな歓喜を味わった直後に、ウラジーミル・プーチンがウクライナに対する侵略戦争を始めたおかげで、アブラモビッチはチェルシーの売却を余儀なくされた。
お気の毒なことではあるが、プーチンはもともと自らの盟友であったわけだし、アブラモビッチは巨額の資産を手にするためにプーチンを利用したのだから、まあ“自業自得”というものだろう。
アブラモビッチをはじめとするロシア人投資家やロシア企業が姿を消すとすれば、その空白は中東の王族やアメリカの投資家の資金が埋めていくのだろう(中国企業はサッカーに対する投資に熱心ではなさそうだし、彼ら自身も余裕がなくなっているように見える)。
しかし、たとえば中東諸国で富と権力を独占している王族たちの地位も長期的に見れば安定しているとは言い難い。国民(および、インドなどから流入した労働者たち)の権利がまったく保障されず、民主的な政治システムも存在しない中東諸国だが、いずれは民主化の風が吹き、現在の体制が否定される日が来るかもしれない。そうなれば、オイルマネーもいつかはヨーロッパのサッカー界から姿を消すのかもしれない。
コロナ禍によって悪化した各クラブの経営状態を立て直さなければならないこの難しい時期に「ロシア・マネー」が消えてしまうのは、短期的にはサッカー界にとってマイナス材料かもしれないが、もっと地に足の着いた健全な経営方式に切り替えていくための良い機会と考えるべきなのだろう。
文:後藤健生
後藤 健生
1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。64年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、「テレビでCLを見るよりも、大学リーグ生観戦」をモットーに観戦試合数は3700を超えた(もちろん、CL生観戦が第一希望だが!)。74年西ドイツ大会以来、ワールドカップはすべて現地観戦。2007年より関西大学客員教授
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