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サッカー フットサル コラム 2021年12月23日

12月開催となった天皇杯決勝戦。「元日開催」の是非を問うきっかけにしよう

後藤健生コラム by 後藤 健生
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12月19日に行われた第101回天皇杯JFA全日本サッカー選手権大会は、後半アディショナルタイムに槙野智章が決めたゴールで大分トリニータを破った浦和レッズが前身の三菱重工時代を含めて史上最多タイの8度目の優勝。今シーズン限りでチームを離れるレジェンドによる決勝ゴールという劇的な幕切れで大いに盛り上がった。

浦和は前半の6分に右サイドを崩して幸先よく先制ゴールを決め、その後もチャンスを作っていたものの、時間の経過とともに攻撃が噛み合わなくなり、後半に入るとしっかりとパスをつないだ大分が優勢に試合を進めた。すると、浦和のリカルド・ロドリゲス監督は83分に守備固めのためにセンターバックの槙野を投入した。槙野を中央に置いて5バックで守ろうとしたのだ。

ところが、守備強化を図ったはずの浦和は終了間際に追いつかれてしまう。時間がない状況でもしっかりとパスをつないだ大分が、最後は下田北斗の左からのクロスをDFのペレイラが頭で決めたのだ。

そこで、最後は守備固めだったはずの槙野が柴戸海のシュートに頭で合わせてコースを変えて決勝点を決めてヒーローになってしまった。ここぞというところで決勝ゴールを決めてしまうあたりが、まさに「持っている男」の面目躍如というところだ。

そういえば、槙野はYBCルヴァンカップの準々決勝、川崎フロンターレとの第2戦でも後半のアディショナルタイムに同点ゴールを決め、アウェーゴール・ルールによって浦和が王者川崎を退けて準決勝進出を決める立役者になっていた。

浦和のサポーターにとっては堪えられないような試合だったかもしれないが、1点をリードした後に攻めあぐねてしまったことや、守備を固めたはずなのに同点ゴールを決められてしまうなど、浦和の戦い方はチグハグなものだった。本来なら、後半に追加点を奪って突き放すか、せめて1対0のまま試合を終わらせて「浦和が勝ったけれど、つまらない試合だ」と言われるような試合にしなければいけなかったのだろう。

槙野にしても、ルヴァンカップ準々決勝の川崎戦では1点ビハインドの場面で「パワープレー要員」としてピッチに送り込まれて与えられた仕事を果たしたのだったが、天皇杯決勝では本来は「守備固め要員」だったわけで、本当は攻撃のヒーローになどなってはいけなかったのだ。

さて、いずれにしても、天皇杯決勝が終わったことでJリーグ各クラブの戦いはすべて終了し、年末年始の日本のサッカー界は各年代別の大会がメインとなる。

例年なら天皇杯決勝は元日に行われるはずなのだが、今シーズンは2022年の1月にカタール・ワールドカップに向けてのアジア最終予選の日程が組まれているためにこういう日程になったのだ。

ちなみに、12月21日には日本サッカー協会から来シーズンの天皇杯の日程が発表され、来年の第102回大会の決勝は10月16日に行われることが明らかになった。2022年は11月21日からカタール・ワールドカップが行われるので、その前にJリーグや天皇杯を終わらせてしまう必要があるからだ。

来シーズンはJ1リーグが通常の34節までと、今シーズンに比べると4試合少なくなったとはいえ、11月5日にJ1リーグも最終戦を戦うことになっているので、夏場はかなりの過密日程となるはずだ。

いずれにしても、元日に天皇杯決勝がないというのは、どこか寂しい気持ちになっているファンも多いのではないだろうか。天皇杯決勝が初めて元日に行われたのは1969年1月1日のことで、すでに半世紀を超える時間が経過しているからだ。

現在、僕たちが「天皇杯」と呼んでいる大会(全日本選手権大会)は、1921年に初めて開催された(「天皇杯」が授与されるようになったのは1951年大会からだったから、それ以前の大会は「天皇杯」とは呼べない)。第1回大会の名称は「ア式蹴球全国優勝競技会」だったで(「ア式蹴球」はサッカーのことだ(「ラ式蹴球」がラグビー)。大会は1921年の11月26日と27日に行われ、東京高等師範学校など東京の師範学校の卒業生が中心となった東京蹴球団が優勝した。

その後も、全日本選手権は秋から冬にかけて行われた。日本のサッカーは師範学校や旧制中学、そして旧制高等学校、大学など学校のチームがメインだった。そして、日本の学校は4月入学、3月卒業だから、シーズン終盤の秋から冬にかけて選手権大会が開かれるのは当然のことだ。

もっとも、1930年代から50年代くらいにかけては、戦争による中断もあったが、大会は5月、6月に開かれるようになった。理由はよく分からないが他の大会の日程との関係でこうなったのだろう。

それが、1963年度大会から昔のように冬の開催になった。つまり、1964年の1月に大会が開かれたのだ。この時の大会は神戸で開かれたが、1966年の1月の大会からは東京の駒沢陸上競技場が舞台となり(1964年の東京五輪で日本代表がアルゼンチンを破った試合の会場)、さらに1968年には国立競技場が会場となった。当時、「成人の日」が毎年1月15日だったので、決勝戦は1月14日か15日に行われた。そして、翌1969年から、天皇杯決勝は元日開催となったのだ。

それから半世紀。天皇杯決勝の元日開催はすっかり定着していたが、Jリーグが発足してからはその“弊害”も取り沙汰されるようになった。

つまり、Jリーグは12月の上旬に最終節が終わるので、ほとんどのチームがオフに入るのに対して、天皇杯で勝ち残っているチームはオフ入りが遅くなってしまう。決勝戦を戦ったチームは元日まで試合があるので、翌シーズンに向けた準備のキャンプが遅くなったり、選手たちの休養日が削られてしまうからだ。

また、12月にリーグ戦が終わると選手たちの来シーズンに向けた契約の交渉などがあるので(時には戦力外通告も)落ち着いた状態で天皇杯が戦えないし、外国人選手がリーグ戦終了後に帰国してしまって天皇杯に出場できないというケースもあった。

だから、「天皇杯の日程を早めてリーグ戦終了の翌週末に行うべきだ」と言われていたのだ。だが、一方で「元日開催」という伝統を守るべきだという意見も根強く、Jリーグ発足から四半世紀が経過しても、天皇杯はずっと元日に開催されてきた(2014年度と2018年度の決勝はアジアカップの準備のために12月開催だった)。

そんな中で、今年の天皇杯は12月19日に決勝戦が行われ、さらに2022年大会では決勝戦はさらに早い10月中旬開催となる。2年連続で「元日ではない決勝戦」を経験するわけだ。これは大変に良い機会のなので、この2年間の経験を元に功罪を検証して「将来、天皇杯をどうするか?」ということをきちんと議論すべきだろう。

僕は、やはり「元日開催」には“弊害”が多すぎるので、リーグ戦終了の翌週(つまり、Jリーグが今と同じ春秋制であるのなら、12月中旬)に決勝戦を終えて、すべてのチームが早めに一斉にオフ入りするようにすべきだと思っている。しかし、実際に元日に天皇杯が行われなくなってみると、それはそれで寂しさを感じるのも事実だ。なにしろ、1969年以来、二度の例外を除いて僕はずっと元日に天皇杯決勝を見続けてきたのだから……。

ちなみに、二度の例外とは1981年元日の第60回大会決勝(香港でスペインW杯予選が行われていたので香港滞在中)と2016年度の第96回大会決勝(大阪開催。当日、どうしても東京にいなければならなかった)。

文:後藤健生

後藤 健生

後藤 健生

1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。64年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、「テレビでCLを見るよりも、大学リーグ生観戦」をモットーに観戦試合数は3700を超えた(もちろん、CL生観戦が第一希望だが!)。74年西ドイツ大会以来、ワールドカップはすべて現地観戦。2007年より関西大学客員教授

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