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このブログについて

プロフィール写真【栗村修】
一般財団法人日本自転車普及協会
1971年神奈川県生まれ
中学生のときにTVで観たツール・ド・フランスに魅せられロードレースの世界へ。17歳で高校を中退し本場フランスへロードレース留学。その後ヨーロッパのプロチームと契約するなど29歳で現役を引退するまで内外で活躍した。引退後は国内プロチームの監督を務める一方でJ SPORTSサイクルロードレース解説者としても精力的に活動。豊富な経験を生かしたユニークな解説で多くの人たちをロードレースの世界に引きずり込む。現在は国内最大規模のステージレース「ツアー・オブ・ジャパン」の組織委員会委員長としてレース運営の仕事に就いている。

栗村修の日常 2013年04月11日

様々な立場

しゅ~くり~むら by 栗村 修
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私が自転車ロードレースの世界に入ったのは、言うまでもなく選手という立場からです。

日本というロードレース後進国で競技をはじめ、その2年後にはフランスへ渡っていました。

当時のカテゴリーはジュニオール(分かりやすく言えば高校生カテゴリー)。

ナントのクラブにはフランスのジュニアチャンピオンも在籍していましたが、皆高校生ということもあって、レース会場へは親やコーチに連れていってもらうのが一般的でした。

当時のチームメイトたちはジュニアを卒業する段階でまず最初の選択を迫られていました。

その選択とは、自転車を続けるかどうか?です。

ここで続けることを選んだ選手というのは、それなりに成績を残せた選手たち。

しかし、結果的には当時のチームメイトでプロまで上がれた選手は一人もいなかったと思います。

一つ上の選手で、USポスタルなどに所属した パスカル・ドゥラメ という選手はいましたが…

私がこの時代に見たものは、本場の自転車ロードレースの底辺でした。

頂点に君臨する ツール・ド・フランス というプロスポーツを目指す子供たちとその親御さん、そして彼らを育てるクラブチームとコーチたち。

自分はそのなかで同じように頂点を夢見ていました。

しかし、あれだけたくさんの選手がいながらも、私の身近に ツール・ド・フランス に出場した選手は一人もいなかったということです。

それから日本に戻り、シマノという名門実業団チームに加入しました。

当時の実業団チームはまだ本格的な海外活動をはじめる前の段階で、日本独自の“自転車競技”という枠の中でのレース活動を続けました。

国体などのステイタスが高い時代で、ヨーロッパでの活動経験のない選手もたくさんいました。

そして、その後再びフランスへ渡ってエリートレースを走り、26歳の時にポーランドのプロチームへ加入します。

結局、プロのメジャーレースを走ることはできませんでしたが、いくつかのレースでは当時のトッププロ達とも肩を並べて走ることができました。

帰国後、再びミヤタという国内実業団チームに戻って数年走り、30歳で同チームの監督を務めることになります。

時を同じくして、スポーツ専門チャンネル 『Jスポーツ』 で放送されている海外ロードレースの解説業をはじめ、メディアという伝える側の価値観も学びました。

ミヤタチームが親会社の業績不振で解散したあと、スキル・シマノのスポーツディレクターに就任。

ここでは当時の今西監督を中心としたグローバル戦略が進められていて、日本人初の ツール・ド・フランス 出場という歴史的な出来事を身近な場所で経験するとこになります。

この頃から、ミヤタ時代から水面下で進めていた国内リーグ構想の動きがより活発化し、レースを創る側の人たちとの接点が増えるようになっていきました。

一方、企業系チームでの限界を感じた私は、発足当初から関係の深かった宇都宮ブリッツェンの監督を務めることになります。

それまでも比較的多様な経験をしてきた自負はありましたが、宇都宮ブリッツェンに加入してからは自転車畑外の人たち、要するに一般社会で生きている人たちとの接点が格段に増えたことで自分の視野の狭さを痛感することになります。

そこで改めて感じたことというのは、ずっと自転車界のなかだけで生きてきた人達の特殊性です。

自転車界の常識がいかに非常識であったかなど、ハッとさせられることが続きました。

そして、最近では、レースオーガナイザーの方や、コミッセール(審判)の方などとの接点も多くなっています。

選手、チーム、海外、日本、アマチュア、プロ、メディア、監督、チーム運営、競技連盟、レースオーガナイザー、コミッセール、リーグ構想、ファン、スポンサー、etc…

改めて言えることというのは、本当に多くの人たちの存在と想いがこの世界を構築しているということです。

これら全ての人たちの価値観、利益、目標などを理解することは大変困難なことですし、時にそれぞれがぶつかり合っている光景もよく目にしてきました。

しかし、同じ世界に生きる“同士”である以上は、共通の大きな目標を持ち、根底では同じ方向を向いたステークホルダーにならなくてはいけません。

政治家や役所などの仕事と一緒で、中央の仕事というのは褒められることの少ない過酷な環境にあると思います。

この先もずっと 『監督』 と呼ばれているのがある意味で居心地がいいのはわかっていますが、『監督』 というポジションが全体の末端に近いことがわかった以上は、先に進む準備をしなくてはいけないとも感じています。

先に進むか、もしくはやめるか…

監督を10年もやっていたら本当にこの先も何も変わらなくなってしまいます。

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