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このブログについて

プロフィール写真【栗村修】
一般財団法人日本自転車普及協会
1971年神奈川県生まれ
中学生のときにTVで観たツール・ド・フランスに魅せられロードレースの世界へ。17歳で高校を中退し本場フランスへロードレース留学。その後ヨーロッパのプロチームと契約するなど29歳で現役を引退するまで内外で活躍した。引退後は国内プロチームの監督を務める一方でJ SPORTSサイクルロードレース解説者としても精力的に活動。豊富な経験を生かしたユニークな解説で多くの人たちをロードレースの世界に引きずり込む。現在は国内最大規模のステージレース「ツアー・オブ・ジャパン」の組織委員会委員長としてレース運営の仕事に就いている。

栗村修の日常 2012年10月01日

羽ばたいた不死鳥

しゅ~くり~むら by 栗村 修
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[7月のJBCF石川ロード、多くのブリッツェンサポーターの前でシーズン3勝目を挙げる増田選手]
photo(c):Tatsuya.Sakamoto/STUDIO NOUTIS

昨日、福島県いわき市で開催されたJPT第15戦の『JBCFいわきクリテリウム』の結果を受け、前レース終了時点でほぼ確定(他チームの選手で逆転可能な選手が消滅)していた増田選手の2012年Jプロツアー個人タイトル獲得の可能性が、残り2戦を残して決定的(チームメイト含めた全選手の逆転の可能性が消滅)なものとなりました。

ここ数年幾度となく大怪我に見舞われてきた増田選手が、遂に国内活動選手の頂点に立ったことになります(JBCFとしての正式発表は輪島での最終戦終了後)。

昨年のJプロツアー最終戦輪島ロード、増田選手は6月から着続けていたルビーレッドジャージを決定する大一番のレースでクラッシュし、全身5箇所を骨折する大怪我を負ってタイトルを失いました。

この時、チームは初の海外遠征となる『Jayco Herald Sun Tour』への出場のために2チーム体制を敷き、私を含む選手5名はオーストラリアにいました。

メルボルンでの最終ステージを前に輪島での増田選手のクラッシュの報が私の携帯電話へ飛び込んできましたが、オーストラリア組の選手たちの動揺を考慮し、その事実はすぐに彼らへは伝えませんでした。

そして、最終ステージを終えた選手たちから『増田のレースどうなりました!』と興奮気味に聞かれ、『落車して病院に搬送された。タイトルは失った。今夜緊急手術を行うらしい。』という辛い現実を伝えることとなります。

ジャパンカップ1週間前の日曜日の夜、メルボルンからオーストラリア組の選手たちが増田選手へメッセージを送りました。

02
[メルボルンから増田選手へメッセージを送る当時のチームメイトたち]

中村選手に付き添われて救急車で病院に搬送された増田選手にメカニックがその画像を見せると、増田選手はベッドの上で涙を流したと後に聞かされました。

全身から発せられる痛みではなく、恐らく悔しさや責任感から生まれた涙だったのでしょう。

通常であれば簡単には復帰できないような怪我だったにも関わらず、彼は2012年の開幕戦に何事もなかったように戻って来ました。

そして、あらゆるレースでその能力を発揮したのです。

全日本選手権ロード(ナショナル選手権) 2位
ツアー・オブ・ジャパン(UCI-2.2)第4ステージ(富士山ステージ) 6位(アジア人最高位)
ツール・ド・熊野(UCI-2.2) 個人総合4位(アジア人最高位)
Jプロツアー 3勝(栂池、富士山、石川)
シマノ鈴鹿ロードレース 2位
ツール・ド・北海道 個人総合4位

本来は得意ではないはずのクリテリウムなどでも上位でのリザルトを数多く残し、エースという責任あるポジションを背負いながら全てのレースで優勝争いを演じました。

レース数の多い自転車ロードレースに於いて、毎レース責任を負って走ることがどれだけ大変なことかは、レースを真剣に戦ったことのある者なら痛いほどわかる事実です。

増田選手が今季残してきたリザルトというのは、国内最強選手と呼ばれるに相応しいものであることは誰の目にも明らかでしょう。

そんな増田選手に私が初めて会ったのは2005年の冬、彼が22歳の時。

ミヤタ・スバルというチームへの加入面接のために都内のファミレスで待ち合わせました。

自転車の名門校日本大学在学中の学生でしたが、自転車部には所属しておらず、航空宇宙工学科で人力飛行の日本記録に挑戦するパイロットという肩書きを持った異色の選手でした。

直近のリザルトはジャパンカップオープンロードでの2位。

カジュアルなカッコにデイバックという普通の大学生らしいスタイルで現れた増田選手は、履歴書を出すと無表情のまま将来への思いを語り、こちらがギャグを言っても特に反応をみせずに終始固い表情のまま会話を続けていました。

その後、鈴木真理選手(現キャノンデール)を師匠として着実に力を付け、チームミヤタ最終年となった2007年には同い年の土井選手(現アルゴス・シマノ)と並んで国内2強クライマーと言われるまでに成長します。

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[ミヤタスバルに加入した2006年の全日本選手権ロードで中村選手と共にゴールに辿り着く。優勝したのは同い年の別府史之選手(現グリーンエッジ)]

チームミヤタが解散となり、2008年以降は本場欧州での挑戦を開始しますが、事故や故障などが重なって目立ったリザルトは残せず。

しかし、根底にある実力は光るものがあり、紆余曲折を経ながら多くの困難を乗り越えて再びここまで這い上がってきました。

節目となる一つの結果を残した今シーズン。

しかし、不死鳥と呼ばれる彼の挑戦はまだ道半ばなはずです。

自転車ロードレースというスポーツは、多くの人たちに『諦めない』というメッセージを送り続けています。

結果を残すことも大切ですが、『挑戦すること』、『諦めないこと』 が人生に於ける主要なテーマであることを伝え続けているのだと思います。

『宇都宮ブリッツェン』という文化の第一章を築き上げた男の存在は、今後もこの地に大きな影響を残していくことになるでしょう。
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