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【栗村修】
一般財団法人日本自転車普及協会
1971年神奈川県生まれ
中学生のときにTVで観たツール・ド・フランスに魅せられロードレースの世界へ。17歳で高校を中退し本場フランスへロードレース留学。その後ヨーロッパのプロチームと契約するなど29歳で現役を引退するまで内外で活躍した。引退後は国内プロチームの監督を務める一方でJ SPORTSサイクルロードレース解説者としても精力的に活動。豊富な経験を生かしたユニークな解説で多くの人たちをロードレースの世界に引きずり込む。現在は国内最大規模のステージレース「ツアー・オブ・ジャパン」の組織委員会委員長としてレース運営の仕事に就いている。
思い出シリーズ第2弾です。
[高校を卒業したばかりの柿沼コーチ(18-左)とフランスから帰国したばかりの栗村(19-中央)]
私が現役時代、柿沼コーチとは何度も同じ「逃げグループ」に乗って勝利を狙うレースを展開しました。
「逃げ」とは、ロードレースに於いて最も攻撃的な戦い方の一つで、強大な力を持つ「集団」を、独力、もしくは数人で引き離して勝利を求めるある意味で代償の大きい走り方です。
「逃げ」は、成功する可能性はあまり高くありませんし、失敗すれば完走すら危うくなる戦術です。
それでも、スプリント力のない自分や柿沼コーチの様なタイプは、勝つためにはこの方法を選択する必要がありました。
実は柿沼コーチとは、選手として同じチームで走った経験はありません。
しかし、タイプが似ていたこともあって、レースの中では何度も協力関係を築きました。
その最初の「逃げ」を成功させたのが、写真の「チャレンジサイクルロードレース」です。
レース序盤の登りでブリヂストンの新人柿沼選手が果敢に飛び出し、それに自分が反応して二人のアタックが決まります。
登りでの柿沼選手のスピードは非常に速く、かなりキツかったのを今でも覚えています。
この時は、経験がある私がゴール勝負で先着しましたが、柿沼選手の実力はこのレースのなかで一番だったはずです。
ちなみに、後続の第2集団の2番手(4位)でゴールしたのは、当時16歳だった鈴木真理選手(現シマノレーシング)でした。
この後、お互いにいくつくかの主要レースで優勝しましたが、いずれも「逃げ切り優勝」という展開だったのは言うまでもありません。
福島県で開催された都道府県対抗ロード(プレ国体)で柿沼選手は2位に2分近い大差をつけて優勝を飾っていますが、私も負けじと神奈川県で開催された都道府県対抗ロード(プレ国体)で後半40kmを独走して2位に1分半の差をつけて優勝しました。
ゴールに近い位置からのアタックで十分に勝てるレースでも、独走の距離と2位とのタイム差に拘る「ちょっと変わった二人」だったのでしょう…
そして、攻めのレース(生き方)は、ある意味でまだ終わってないのかもしれません