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サイクル ロードレース コラム 2017年6月8日

【ツールに恋して~珠玉のストーリー21選~】唯一果たせなかった総合優勝の夢、アイルランドが生んだ異端児の孤独な戦い

ツールに恋して~珠玉のストーリー21選~ by 山口 和幸
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※本企画は2017年に実施されたものです。予めご了承ください。

世界中の自転車ファンを魅了して止まないTour de France。男たちの激闘の裏に隠されたHUMAN DRAMAに僕らは胸を打つ。ここに紡ぐ珠玉のストーリー21選があなたに届くとき、聞こえるのはきっと、ツールへの恋の予感

【STAGE 06】アイルランドが生んだ異端児、ショーン・ケリー

ツール・ド・フランスで1982、83、85、89年とポイント賞を獲得するようなスプリンターでありながら、1988ブエルタ・ア・エスパーニャ総合優勝、パリ~ニースでは1982年から最多記録となる7連覇を達成したアイルランド出身選手がいる。英語圏のパイオニア的存在、ショーン・ケリーだ。

ケリーは春のクラシックから秋のロンバルディアまでワンデーのメジャーレースを総ナメにして、ツール・ド・フランスでも存在感を見せつけた。しかし自転車を始めたころのアイルランドではだれ1人として本格的なロードレースを知らなかった。ケリーは練習方法を外国の雑誌から覚えたり、近所に引っ越してきたベルギー人の家族に話を聞かせてもらったりした。しばらくしてフランスチームに加入したが、マッサージのために足の毛を剃ることも知らなかったのでチームでは異端児として扱われ、孤独な時間を過ごした。

それでもプロ1年目から4勝。1978年にはツール・ド・フランスでステージ優勝した。ツール・ド・フランスには通算14回出場し、ステージ優勝は5回。しかしゴールスプリントで勝ちきれずに2位に甘んじたことは20回ある。ゴール前での発射台となるようなアシストを持たず、すべて孤軍奮闘してきたからである。ケリーにアシストがいたらどれだけのタイトルを手中にしたかは知るよしもない。

本人は「だれかに助けてもらおうとは考えたこともない」と語る。

このケリーの活躍により、1980年代になると英語圏から続々とプロロードレーサーがヨーロッパ大陸にやってきた。アイルランドのロッシュ、アメリカのグレッグ・レモンやアンドリュー・ハンプステン、スコットランドのロバート・ミラー、オーストラリアのフィル・アンダーソン、カナダのスティーブ・バウアーらだ。

ケリーはさらに「スーパープレステージ」と呼ばれる世界ランキングでも1984年から3年連続で11位になり、さらにそれを継承するワールドカップランキングでも1988年まで1位の座を守り続けた。フランスのベルナール・イノー、アメリカのグレッグ・レモンらの強豪がいた時代である。

実現できなかった夢はツール・ド・フランス総合優勝。前述したように区間優勝は5回あり、そしてキングオブスプリンターの称号であるポイント賞は4回獲得している。1983年には総合7位と健闘し、84年は5位、85年は4位とタイトル獲得に近づいていく。しかし総合優勝はついに果たせなかった。ツール・ド・フランスの山岳ステージで小柄なスペシャリストと渡り合うことはできなかった。

「ツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアの山岳ではダンシングで軽々と上ってしまうスペシャリストを相手になすすべもない。ツール・ド・フランスを勝つことは夢で終わってしまった」

代替画像

山口 和幸

ツール・ド・フランス取材歴25年のスポーツジャーナリスト。自転車をはじめ、卓球・陸上・ボート競技などを追い、日刊スポーツ、東京中日スポーツ、Number、Tarzan、YAHOO!ニュースなどで執筆。日本国内で行われる自転車の国際大会では広報を歴任。著書に『シマノ~世界を制した自転車パーツ~堺の町工場が世界標準となるまで』(光文社)。2013年6月18日に講談社現代新書『ツール・ド・フランス』を上梓。青山学院大学文学部フランス文学科卒。

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