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サイクル ロードレース コラム 2017年6月19日

【ツールに恋して~珠玉のストーリー21選~】「エターナルセカンド」の汚名返上!ドイツ勢初の総合優勝を果たした男、ヤン・ウルリッヒ

ツールに恋して~珠玉のストーリー21選~ by 山口 和幸
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※本企画は2017年に実施されたものです。予めご了承ください。

世界中の自転車ファンを魅了して止まないTour de France。男たちの激闘の裏に隠されたHUMAN DRAMAに僕らは胸を打つ。ここに紡ぐ珠玉のストーリー21選があなたに届くとき、聞こえるのはきっと、ツールへの恋の予感。

【STAGE 13】エターナルセカンド、ヤン・ウリッヒ(ドイツ)

旧東ドイツ出身のヤン・ウルリッヒが1997年にツール・ド・フランスで勝つまで、ドイツ勢がツール・ド・フランスで総合優勝したことはなく、「ドイツが制することのできない最後のスポーツ大会」と言われていた。ドイツでの自転車人気はパッとしなかったが、そこに突如として現れたのが、荒削りだがタイムトライアルに強く、山岳でも粘りを見せるウルリッヒ。23歳だった。

東ドイツのスポーツ英才教育を受けたウルリッヒは、ベルリンの壁崩壊という幸運もあってプロロードレーサーとしての道を歩み始めた。1993年には世界選手権のアマチュアロードで優勝。このときのプロレースの優勝者がランス・アームストロングである。

ウルリッヒの名前が世界中に轟くのが1996年のツール・ド・フランスだ。ドイツテレコムのアシスト役として初参加すると、エースのビャルネ・リースを助けながら総合成績の上位をキープ。最終日前日の個人タイムトライアルで初のステージ優勝を飾り、総合優勝のリースに続く2位でフィニッシュしている。

そして1997年、ウルリッヒはドイツチャンピオンのジャージを着用してツール・ド・フランスにやってきた。チームのエースナンバーは連覇を狙うリースだったが、ドイツファンのだれもがウルリッヒのマイヨジョーヌを熱望していたのは確かだ。

ウルリッヒはピレネーのアンドラにゴールするステージで単独アタックし、ゴールまで独走すると、その日終わって初めてのマイヨ・ジョーヌを獲得した。この時点でエースはリースからウルリッヒに替わった。その後のステージをなんとか乗り切ったウルリッヒは、このアンドラで稼いだタイム差をパリまで守りきって、ドイツ勢初の総合優勝を達成するのだ。

ウルリッヒは暑さに強く、寒さに弱い選手だった。翌1988年にマイヨ・ジョーヌを着て序盤戦を戦いながら、寒波に見舞われたレース終盤の山岳ステージで脱落。マルコ・パンターニに逆転され、総合2位に終わっている。その一方でランス・アームストロングの7連覇時代(後にドーピング使用で全記録はく奪)、アームストロングが唯一苦戦した猛暑の2003年に、この偽りの王者を倒す寸前まで戦ったのがウルリッヒだった。

ウルリッヒにとって不運だったのは、不正薬物使用のアームストロングと同じ時代に生きてしまったことだ。1999年に初めてアームストロングと激突し、優勝を奪われて総合2位に甘んじた。初出場の1996年も2位だったことから、ウルリッヒはこのときから「エターナルセカンド=万年2位」というあだ名がついてしまう。実際にツール出場8回にして5位5回という記録は、実に象徴的だ。

ウルリッヒの人気は引退後の今もなお継続して高い。掟破りのアームストロングに対しても歯を食いしばって攻撃した。そして置き去りにされたときに見せる絶望の表情。そんなウルリッヒの熱き走りに魅了された日本のファンが多いのはまぎれもない事実だ。カッコよさではだれにも負けない。強さもあれば弱さも露呈する、人間味あるレーサーだった。

山口 和幸

ツール・ド・フランス取材歴30年超のスポーツジャーナリスト。自転車をはじめ、卓球・陸上・ボート競技などを追い、東京中日スポーツ、ダイヤモンド・オンライン、LINEニュース、Pressportsなどで執筆。日本国内で行われる自転車の国際大会では広報を歴任。著書に『シマノ~世界を制した自転車パーツ~堺の町工場が世界標準となるまで』(光文社)、講談社現代新書『ツール・ド・フランス』。青山学院大学文学部フランス文学科卒。

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