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フィギュア スケート コラム 2023年7月26日

カルチュラル・スタディーズとは | 町田樹のスポーツアカデミア 【Dialogue:研究者、スポーツを斬る】 ~ポスト・スポーツの先を見据えて~

フィギュアスケートレポート by J SPORTS 編集部
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スポーツ社会学の研究動向

スポーツ社会学の研究動向

今年でスポーツアカデミアもシーズン4を迎えました。今シーズンも学術的知見に基づいた最新のスポーツ教養コンテンツをお届けしていく予定です。さて、シーズン4の初回放送となる今回は、スポーツ研究者とクロストークを展開する、「研究者、スポーツを斬る」という企画をお送りします。

これまで本番組では様々な研究者の方々と対談をさせていただきましたが、いずれの方々も自然科学系の学問を専門とされておられました。ですが、今回は本番組初となる人文社会学系の学問を専門とする先生をお招きしております。それでは早速、先生をお迎えいたしましょう。

成蹊大学 社会イノベーション学部  山本敦久教授

成蹊大学 社会イノベーション学部 山本敦久教授

町田(以下M):成城大学社会イノベーション学部の教授であられる山本敦久先生です。

山本(以下Y):どうぞよろしくお願いします。

M:では、ご着席ください。

Y:ありがとうございます。

M:先生とは4〜5年前、学会のシンポジウムでコラボレーションさせていただきました。久しぶりにコラボレーションできて、私もとても嬉しく思っています。

Y:よろしくお願いします。

著書:ポスト・スポーツの時代

著書:ポスト・スポーツの時代

M:日本は東京オリンピックを2年前に終えました。コロナ禍を経て、今、スポーツ界もいろいろな話題で持ち切りですけれども、例えばジェンダーの問題やテクノロジーの問題、これからのスポーツ文化を考えていくときに絶対避けて通れない問題というものにスポーツ界は今、直面しています。これがなかなかマスメディアで報道されず、社会で議論が進んでいない状態なんですけれども、山本先生は、そうした問題を社会学の知見から考えておられます。さらに近年では「ポスト・スポーツの時代」というご著作も出版されて、「来る次の時代のスポーツ文化がいかにあるべきか」ということを深く考えているスポーツ社会学のフロントランナーでいらっしゃいます。先生はどのようにしてスポーツ社会学と出会って、研究者になろうと考えるようになったのでしょうか。

Y:スポーツをするのも見るのも、それから関わったり、支えたり。いろいろなスポーツへの関わり方があると思います。子どもの頃からいろいろなスポーツやってきましたけれど、私が学者になるスタートポイントを作ってくれたのは、中学生ぐらいの時のスポーツライティングを読むという経験だったのかなと振り返ることができると思います。皆さんご存知だと思いますけど「Sports Graphic Number」であるとか、いろいろな読みごたえのあるスポーツのライティングが当時、1980年代から90年代にたくさんありました。沢木耕太郎さんとか山際淳司さん、名だたるスポーツライターたちがたくさん名作を残されていた時代で、私も中学校ぐらいの時にそういったものに触れました。もちろんプレーすることも楽しいし、興奮もするし、自分のテンションも上がる。同時に、スポーツを読む。身体運動を文字に翻訳し直したものを改めて読んで、スポーツの場面を頭の中で再構成して、もう一つのスポーツのあり方を楽しんでいく。そういったものに魅了されて、スポーツを書くという仕事に就いてみたいなというのが中学校ぐらいからずっと思っていました。その夢をどうやったら実現できるのかな、ということを考えて、私は筑波大学に進学したんですけれど、筑波大学では社会学をベースにして、ジャーナリスティックにスポーツを勉強する場所があったので、大学に進学して勉強をはじめた。これが入り口だったわけですよね。

カルチュラル・スタディーズ

カルチュラル・スタディーズとは

M:先生は社会学の中でも、とりわけカルチュラル・スタディーズというところに軸足を置いて研究をされています。そのカルチュラル・スタディーズはどういう学問なんでしょうか?

Y:この学問はすごく面白くて、例えばイギリスって大英帝国で世界中に植民地があって、戦後、植民地が独立していく。植民地から独立していった国や地域の人たちが、今度はイギリスに移民をして、そこで職を得たり、新しく生活をしたりしていくということがはじまっていくのですが、そうすると、イギリス国内の中に多くのカリブ海からの移民であるとか、インドからの移民たちが来て、その二世などが勉強をしてイギリスで大学に通う。そこで社会学や文学、人文社会科学の勉強をして学者になっていく人たちも出てきています。そうすると、今まで社会学や人文社会科学の中で言われていた常識、理論、ものの考え方、そういうものが、実は「白人の男性たちの当たり前が反映されているんじゃないか」と言いはじめるわけですね。移民たちからするとその理論は「私たちにとっては当たり前じゃない」。カルチュラル・スタディーズは、黒人たちの生活、あるいは白人たちが作り上げた世界の常識にうまく入れない人たちにとっての社会みたいなものを描き出していくことにすごく長けた学問で、そこにさらに女性であるとかセクシャルマイノリティであるとか、そういった社会の主流から少し排除されていった人たちが、カルチュラル・スタディーズに集合していって、非常に多様な視線から社会を眺めていく。そういう学問の運動としてカルチュラル・スタディーズが出てきたわけですね。

M:なるほど。まさにスポーツの来歴からしてもカルチュラル・スタディーズとの相性は良かったのかもしれないですね。19世紀半ばにイギリスを発端として近代スポーツがどんどん流通して、近代スポーツは統一的なルールと統一的な環境で、世界中どんな人たちも同じ状況で身体活動をするというものですけれども、ある意味、西洋の文化に他の国の人たちも合わせて競技をしていく。その中でいろいろな摩擦や、その文化に適合できない部分、そういう問題もたくさん生じやすいというのがスポーツだと思うのですけれども、そもそもそこに気づかれて早い段階でカルチュラル・スタディーズの観点からスポーツを切ろうと考えておられたんですよね。

Y:おっしゃる通りです。まさに町田さんがおっしゃる通りで、やっぱりヨーロッパや北米の白人の男性のヘテロセクシャルが規範や理想として作られたカルチャーだと思うのですけど、そこに当てはまらない人たちもスポーツをする。そういった時にいろいろな障壁が出てくるわけですよね。カルチュラル・スタディーズは、まさにその障壁をどういうふうに変えていくのかという学問だと思いますし、スポーツもまさにそういう障壁がたくさん可視化されてきた時代が90年代です。男性だけのスポーツだったサッカーが女性たちも積極的に行うし、ヘテロセクシャルが前提だと言われているアスリートでもカミングアウトする選手たちがたくさん登場してきました。ちょうど私が勉強して研究しはじめていく時代と、その転換点が重なっていたというところもあって、カルチュラル・スタディーズを自分の方法に取り入れたのはとても有効だったなというふうに今、思いますね。

M:スポーツ社会学とかカルチュラル・スタディーズにおけるスポーツ研究の動向ってどうなんでしょうか。

Y:スポーツははじまってから150年から200年ぐらい経つと思いますが、おそらく最大の転換点を迎えています。私は2010年代からのこの十数年は、長いスポーツの歴史の中の大きな転換期だと思っていて、それをなんとかこの時代にきちんと書いて残しておきたいという思いがあって本を書いたんですけれど、まさに今、スポーツ界で起きている大変化というのはすごくカルチュラル・スタディーズのテーマと重なっています。多くの方々もご存知かもしれませんけど、今、アメリカでも人種差別の問題、これは毎日のようにニュースになっています。それから今、フェミニズム運動が世界的にすごく大きな力を持ちはじめていて、例えば「#Me Too運動」のようにインターネットという新しいメディアを通じて、問題・関心が国境を越えて共有されていくような時代。このような時代に、スポーツが競技のフィールドだけじゃなくて、社会変革にとっての大事なフィールドになりはじめている。

例えば、大阪なおみさんのように「ブラック・ライブズ・マター運動」の象徴的な人物になっていくということも珍しくはありません。今アメリカでは黒人アスリートたちが、自分たち黒人がアメリカの中で置かれている状況をやっぱりよしとせず、アスリートたちが反人種差別の運動を行っています。また、スポーツって男性中心の社会でできていて、例えば男性監督とか、男性コーチたちが女性たちを指導しており、見えてこなかったハラスメントの問題などが出てきた。それは指導者と教えてもらう側の権力関係があるので、なかなかオープンにできない部分があった中で、勇気を持って「#Me Too運動」など「私もそういう犠牲にあってきたんだ」という声を上げることができる。一人が声を上げると、SNSを介して世界中で同じような境遇に置かれている人が、「私もそうだ」「私もそうだ」って意識や思いを共有していくことができるようになってきています。その時に、本当にスポーツが大事な場所・フィールドになってきているんですよね。アスリートが、この社会にある理不尽なことであるとか、不平等、そういったものに勇気を持って意義を申し立てていく。そういう存在に、アスリートたちがなりはじめている。私の研究テーマは、まさにカルチュラル・スタディーズがやってきたことをスポーツのフィールドの中で展開していくこと。それが最近の大きな関心・仕事だと思いますね。

ブラック・ライブズ・マター運動

ブラック・ライブズ・マター運動

M:どうしても日本では、そういう選手の主張が取り上げられなかったり、逆に炎上してしまったりというケースが見られますけれども、なかなか難しいことなのでしょうか。

Y:やっぱり今、日本でプレーしていても多くの若者たちは世界のアスリートたちの動向が手に取るようにも分かるので、今まで通りでは日本のスポーツ界もいられないだろうなと。だから積極的に声を上げるアスリートが、日本の中からも、これからどんどん出てきてほしい。何か意義を申し立てることは当然リスクがあることで、社会的に受け入れられないこともあるかもしれない。私たちのような学者が、それは今の現代社会にとってどういう力強い意味があるのか。どんなふうに社会を良くしていく希望がそこにあるのかということを補強してあげたいし、助けてあげたい。できれば広めてあげたい。だから、私の研究は研究であると同時に、現代アスリートたちの勇気ある行動をサポートしたいし、広げていく。それも自分にとっての一つの研究だと思っていますね。

M:なるほど。スポーツの世界で「スポーツと政治的な思想や主張と分離すべきだ」みたいな考え方が固着している。だからこそ炎上したり、アスリートの取り組みも無視みたいなことにつながっていくケースが多々見られるんですけれども、スポーツ・政治分離のこの考え方は、いつからそんなことを誰が言いはじめたのでしょうか。

Y:アスリートが、人種差別撤廃とか女性差別に反対するとか、競技以外の関心を持って発言すると、スポーツと政治は別なんだから、スポーツ選手は政治に口出しをするなと言われる。アーティストとかミュージシャンたちは、とかく政治的な話題に踏み込む人たちもたくさんいて、それほど非難されることもないんだけど。

M:むしろそういうアート作品はたくさんありますもんね。音楽も含めて。

Y:スポーツはやっぱりそういう政治領域にタッチすると、必ず非難される。でも突き詰めていくと、じゃあなんでスポーツと政治は一緒にしちゃいけないのということを、きちんと整理して言える人って、あまりいないと思うんですよ。はじめてポピュラーにスポーツと政治が混同されること、政治的なモードが関わっていると多くの人が感じ取ったのは、1936年かなと思います。ベルリンオリンピックの頃ですね。ナチスが政権を奪取して、オリンピックをプロパガンダの道具にしていく。そんな時代があって、それに対してスポーツと政治は切り離すべきだという論調がそこで登場してくる。

M:ナショナリズム暴走の抑制剤ということですね。

Y:そうですね。ナチスのような排他的なナショナリズムを取るような政治体制が、スポーツというユニバーサルなものを自分たちの道具にして政治宣伝していく。これに対抗するために、「いや、スポーツはそんな政治の道具じゃないよ」という対抗言説が一つ生まれてきたと思うのです。これは町田さんがおっしゃるように、ナショナリズムの暴走。これを一つ食い止めていくための策として、「スポーツと政治は切り離すべきでしょう」という議論が出てきた。近代スポーツというものが誕生してはじめて、そこをみんなが気にするようになった。逆に言うと、スポーツはそれだけの大きなパワーを秘めているということに、みんなが気づく時期でもあったと思うんです。一番大きな変化が生まれてくるのは1960年代後半ぐらいだったと思いますね。例えばメキシコオリンピックの陸上の表彰台で2人の黒人アスリートが、黒いグローブをつけて顔はうつむくんですけど、拳を突き上げるアクションを起こすわけですよね。そうやってスポーツが人種差別に反対しようとする。黒人たちにとってのとても大事なフィールドだと考えられはじめていくのが60年代の後半。それはナショナリズムという大きな政治じゃなくて、もっと自分が自由に生きていくための生活を、差別によって脅かされないような安心した暮らしをという意味で、自分のアイデンティティや実存に関わるレベルでアスリートたちが主張しはじめていく。それを今度は、大きなスポーツの組織が弾圧していくということがはじまった。

60年代以降のアスリートたちというのは、自分たちの生活や生きていくことの障壁を超えていきたいとか境遇を変えていきたいという思いの政治なんですよね。このことを「スポーツと政治を混同するな」という形で、アスリートたちのそういう思いを止めてしまったり、弾圧するというのは、やっぱりちょっと違うなって思うんですよね。今、起きていることって、この60年代を発端としたものが、まさにそのインターネット時代にもう一度浮上してきている。そんなことがあって2010年代に若い新しいアスリートが、まるで60年代がリバイバルしてきたかのように、自分たちの主張、それを政治と呼ぶかどうかは別として、そういう主張をするようになる。政治も多様化していて、ナショナリズムだけが政治とも言い切れないので、例えばジェンダーも政治だと思うし、人種も政治だと思う。環境も政治。だから今のアスリートたちは、ナショナリズムみたいな大きな政治とはちょっと違うところで自分たちの境遇を変えていくための政治を行っているというふうに解釈したほうがいいかなと思います。

1968年 メキシコオリンピック

1968年 メキシコオリンピック

M:なるほど。これからの時代のスポーツ科学者は、今、なくてもいい言説というものを解きほぐしていくというのは使命ですね。

Y:時代の転換とスポーツの転換というのが、やっぱりどこかでパラレルに動いている。スポーツはそれをやっぱり見事に映し出していると思うので、スポーツで起きていることは社会でも起きているという観点はとても大事だなと思いますね。

M:わかりました。じゃあ、その観点をもってここから先生の研究の専門の話にもっと深く入っていきたいと思います。

文:J SPORTS編集部

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