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ラグビー コラム 2021年10月21日

ラグビーのテストマッチ ~ジャパン vs. ワラビーズの値打ち

be rugby ~ラグビーであれ~ by 藤島 大
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日本代表vs.オーストラリア代表(2017/11/4)

パンデミックによいことなどありはしないが、それよって見直された価値ならある。ラグビーの「テストマッチ」もそうだろう。観戦の機会を長く制限されてあらためてわかった。ひとつずつの国際試合は、4年にいっぺんのワールドカップへのプロセスにとどまらず、そもそも独立した値打ちがある。

10月23日。土曜。大分市の昭和電工ドーム大分。午後1時45分。ジャパンとワラビーズのテストマッチの幕が開く。ずいぶん待たされたような気がする。

テストマッチとは先にある目標のための「テスト」とは違う。語義は「互いの心身、情熱を厳しい戦いにおいて問う」。そのときのその場の激突に存在をかけるのである。1880年代にクリケットやラグビーで用いられるようになった。

元日本代表監督、故・宿沢広朗さんの著書、その名も『TEST MATCH』(講談社)にこうある。テストマッチとは?

「ラグビーグラウンドという戦場で、国を代表する十五人が戦う戦争である」

ワラビーズは直近のテストマッチに4連勝している。ジャパン戦を終えると敵地でスコットランド、イングランド、ウェールズと対戦する。南半球の国なので「スプリング・ツアー」と呼ぶ。ようやく秋めく日本も「戦場」のひとつに選ばれた。

ニュージーランド人のデイブ・レニーHC(ヘッドコーチ)の評価は上々だ。2012年と13年、チーフスを率いてスーパーラグビーの連覇を果たした。「ブレイクダウンの鬼」で知られた。容赦ないハードワークでボール争奪のスキルや強度を磨いた。現在57歳。クック諸島の血を引き、ギターをよく奏で、若き日、ウェリントンで『ひとりぼっちの山羊飼い(The Lonely Goatherd)』というパブを営んだ経験もある。

手腕は日本ラグビーと縁のある選手の躍動にも表れた。

33歳の10番、クエイド・クーパー(花園近鉄ライナーズ)を代表へ4年ぶりに呼び戻すや、さっそく9月12日の南アフリカ戦で劇的な逆転PGを決めるなど存分に能力を発揮した。格別な才能がただ発散されるのではなく、チームを引き締める方向に作用していた。

5月までNECグリーンロケッツに短期在籍、7月に初めてワラビーズに選ばれたWTB、26歳のアンドリュー・ケラウェイもアルゼンチン戦のハットトリックをはじめ光を放った。身上だろうポジショニングの賢さがフィニッシュの場面にうまく引き出されていた。

スキルに満ちたベテラン、速さや強さでないところで抜擢された新顔、どちらも弾むような活力をたたえている。そこに的確なコーチングは浮かんだ。

レニーHCはチーム文化に関して述べている。

「もし我々がフィールドの上で高い質のラグビーをしたとしても、公共の場でのふるまいに品位を欠けば人々は尊敬しない。我々がフィールドの外でよき人であっても、闘争心を欠き、さえないプレーをすれば、やはり人々が敬意を抱くことはない。どちらについても正しく理解しなくてはならない。それこそがチームの中で推し進めることだ」(シドニー・モーニング・ヘラルド紙)

古今東西のよきコーチは「文化」を唱える。ラグビー文化、チーム文化、便利な言葉だから上滑りする危険もある。ぐらつかぬカルチャーを築くのは結局のところ具体的な勝ち星である。ワラビーズもジャパンも目の前のテストマッチを制して本物の波をつかまえなくてはならない。

2009年11月、ワラビーズの当時のロビー・ディーンズ監督をインタビューした。元オールブラックスのニュージーランド人が隣国の代表を統率して感じる「オーストラリア人の気質」とは?

「オーストラリアはタフ・カントリーです。人々は、ここというところでは逆境を跳ね返す。そこが強みです。それは文化なのです」

苦難にも明朗で前向きな人々を「レジリエント・ピープル=Resilient People)」と言った(発音はもっと滑らかであったが)。なるほどワラビーズは一発勝負に強かった。ときに戦力で劣っても引っくり返す。

そして、そんな文化も、まず実力があって、ようやくワールドカップの準決勝あたりで実を結ぶ(1991年、2003年大会での対オールブラックス勝利)。いまはテストマッチに全力で臨み白星を集める段階なのである。

ジャパンも同じだ。2年前の躍進を未来の礎とするために手にしたいのは、さらなる強国からの白星、避けなくてならぬのは「大敗」である。テストマッチはすべて歴史の総力戦である。

worldrugbymuseum.comより引用

最後に。ワラビーズを迎えるにあたり忘却を許されぬ名を挙げたい。過去にいくつかのメディアで紹介したが、初めて知る読者がおられると考え、ここでも触れたい。

ブロウ・イデ。本名、ウィンストン・フィリップ・ジェイムズ・イデ。イデとは「井手」である。ワラビーズ史上唯一の日系選手だ。キャップは「2」。ポジションはCTBだった。佐賀出身の父、秀一郎は1894年に渡豪、シドニーで貿易商を営み、オーストラリア人のクララと結婚、4人の息子と3人の娘を育てた。末弟の愛称ブロウはラグビーが上手だった。

1939年7月21日。シドニー。ワラビーズを乗せた客船が英国ツアーへ発った。同9月2日。プリマス港到着。なんと翌3日、英独の戦争が始まった。遠征はキャンセルされた。

ブロウ・イデは帰国後、オーストラリア軍兵士となり、シンガポール陥落で日本軍に捕えられる。42年5月からの2年強は泰緬鉄道建設の苦役を科せられた。44年9月6日、1318名の「連合国人員」のひとりとして楽洋丸で日本本土の門司港へ運ばれる。炭鉱労働のためだった。同12日午前5時31分、海南島の東で米軍潜水艦の魚雷は命中、1150名強の捕虜が死亡する。

第二次世界大戦で命を落としたラグビー国際選手についての一冊『Final Scrum』にブロウ・イデの最期が記されている。「仲間が舟に引き上げようとした。しかしブロウは拒み、叫んだ。俺はとどまる。必要とあらばオーストラリアまで泳いで帰れる」。救命ボートの数はまったく足りていない。水上のブロウは傷ついた戦友のそばを離れようとしなかった。

1938年8月。来征のオールブラックスとのテストマッチに出場した。ブリスベンで14ー20。シドニーでは6ー14。死の直前、得意の低いタックルをたたえる拍手は聞こえただろうか。

文:藤島 大

藤島大

藤島 大

1961年生まれ。J SPORTSラグビー解説者。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。 スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。 著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)近著は『事実を集めて「嘘」を書く』(エクスナレッジ)など。『 ラグビーマガジン 』『just RUGBY 』などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球にみる夢』放送中。

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