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サッカー フットサル コラム 2023年8月30日

金子勝彦さんの思い出 リバプール愛が“溢れ過ぎた”実況

後藤健生コラム by 後藤 健生
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1978年のアンフィールド

1978年のアンフィールド

金子勝彦さんが亡くなったことが報じられた。サッカーの実況アナウンサーの草分け的存在である。

東京12チャンネル(現テレビ東京)の名物番組『三菱ダイヤモンド・サッカー』の放映が始まったのは1968年のことだった。半世紀以上前、僕が中学生だった頃の話だ。

地上波テレビだけでなく、BS、CS、ネット配信を通じて世界中のサッカーの試合がいくらでも見られる現在とは違って、テレビ放送は地上波しか存在しなかった。また「スポーツといえばプロ野球」という時代で、読売ジャイアンツのナイターは毎晩必ず中継されていたが、サッカー中継といったら年間に数えるほど。まして、海外の映像など見る機会がまったくない時代だった。

そんな時代に、イングランドや西ドイツを中心に海外の試合が放映されたのである。

放送時間は45分。前半が終わると「それでは、後半はまた来週」という、今では想像もできない方式だった。しかも、初期にはフィルム、その後はビデオテープを空輸して放送するのだから(衛星放送はあったが、費用が高額だった)、試合は何週間も前のものだった。

それでも、日本のファンにとっては“世界”を見ことのできる“唯一の窓”だった。

サッカー少年たちにとっては各家庭に1台しかないテレビのチャンネル権を確保するのがまず難関だった。そして、放送が始まるとテレビの前で食い入るように画面を見つめた。「録画」などはできない時代のこと。一瞬も見逃してはいけなかった。

画面には、当時の日本のサッカー場とはまったく違った光景が映っていた。整備された芝生のピッチ。立見席にぎっしりと詰め込まれたサポーターの歌声やチャント……。何もかもが新鮮だった。

そして、そこに乗せられるのがやや高いトーンの金子アナウンサーと、少し低いトーンの解説者、岡野俊一郎氏との間の落ち着いた、知性溢れる会話だった。

試合の技術、戦術的解説だけでなく、各国のサッカー文化などについて含蓄に富んだ岡野さんの話を金子さんが見事に引き出した。サッカー少年たちは、岡野・金子コンビの言葉を聞きながら成長して大人になったようなものだ。

その後、『三菱ダイヤモンド・サッカー』では1970年のメキシコ・ワールドカップの全試合が放映された。もちろん、生中継ではない。全32試合を前後半に分けて1年かけて放送したのだ。

ブラジルが、グループリーグから決勝戦まで全勝で優勝を飾った大会である。ペレを筆頭に、リベリーノやジャイルジーニョ、トスタン、カルロス・アルベルトといったスーパースターがおり、おそらく世界のサッカー史上の最強チームの一つだ。

ブラジルのプレーは日本のサッカー少年たちや若いサッカー指導者に大きな影響を与え、それまで“蹴って走る”サッカーが主流だった日本でも、テクニック重視の指導を行う指導者が現われ、ブラジルを見て育った選手が成長したことで日本サッカーのレベルは上がり、後のプロ化(Jリーグ発足)につながった。

ちなみに、ワールドカップの日本における初の生中継も『三菱ダイヤモンド・サッカー』の特別枠として放映されたは1974年西ドイツ大会の決勝戦。もちろん、実況解説は岡野、金子のコンビだった。

僕にとっての思い出は、たったの一度だけだが、金子さんと一緒に仕事ができたことだ。

十数年前。チャンピオンズリーグの試合の解説の仕事だった。実況担当が金子さんで、しかも、金子さんが「一番好きなクラブ」というリバプールの試合だった。

『ダイヤモンド・サッカー』が放映されていた1970年代は、リバプールの黄金時代だった。

1959年に名物監督ビル・シャンクリーが就任。低迷していたクラブを立て直して1963/64シーズンに17年ぶりのフットボール・リーグ(FL)優勝を果たし、1965/66シーズンにも優勝すると、1970年代には5度もFLで優勝。1976/77、1977/78シーズンとヨーロッパ・チャンピオンズカップでも連覇を飾ったのだ(シャンクリー監督は1974年夏に退任)。

ちなみに、FL1部は当時のイングランドのトップリーグ。チャンピオンズカップはチャンピオンズリーグの前身だ。

エムリン・ヒューズやジョン・トシャック、ケビン・キーガン、レイ・クレメンス(GK)といった名手たちが並ぶ「ドリームチーム」だった。

さて、リバプール戦実況の日、金子さんは1970年代当時の資料を大量に持ってきて、控室で僕に見せてくれたのだ。

現在のサッカー中継では「データマン」と呼ばれる専門家がいて、インターネットを駆使して作成した資料を用意してくれる。実況アナウンサーも、解説者もそれに目を通し、あるいは放送ブースで手元に置いてしゃべればいいのである。

だが、1970年代には「データマン」などはいなかった。資料は、金子さん自身が手間と時間をかけて作った、鉛筆書きの手作り感たっぷりのものだった。

当時は、もちろんインターネットなど存在しなかったから、雑誌や新聞記事などを読み込み、また放送を担当した時のメモなどを足していった貴重なものだ。

金子さんとしては、若い解説者ではなく、“当時”を知る僕が解説にやって来るというので、その古い資料をわざわざ持ってきてくれたというわけだ。

もっとも、試合の中継が始まってからも金子さんは1970年代の黄金時代のことが頭から離れないようですっかり昔話に花が咲いてしまった。僕も昔話は楽しかったのだが(何しろ話し相手が金子さんなのだ!)、目の前では試合が進行しているので昔話ばっかりしているわけにはいかない(対戦相手がどこだったのか、まったく記憶にないのだが……)。

そこで、僕が目の前で繰り広げられているプレーの話に戻すと、金子さんが再び昔話を始めるという奇妙な展開の放送になってしまい、周りの人たちに「実況と解説が逆みたいでしたね」と言われてしまった。

とにかく、少年時代に憧れをいだきながら『ダイヤモンド・サッカー』を見ていた僕としては、一度だけでも金子さんと一緒に仕事をさせてもらったことは、一生の思い出として残っている。

サッカー放送の現場も、日本のサッカーも、イングランドのフットボールも、すっかり様変わりしてしまったが。リバプールは今でも強豪としての地位を保っており、アンフィールドは立見席がなくなった今も、当時の雰囲気を最も色濃く残したスタジアムの一つだ。

そのアンフィールドで、今シーズン、遠藤航という日本人選手が活躍することになった。金子さんも、きっと空の上から遠藤の活躍を見守ってくれていることだろう。

文:後藤健生

後藤 健生

後藤 健生

1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。64年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、「テレビでCLを見るよりも、大学リーグ生観戦」をモットーに観戦試合数は3700を超えた(もちろん、CL生観戦が第一希望だが!)。74年西ドイツ大会以来、ワールドカップはすべて現地観戦。2007年より関西大学客員教授

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