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サッカー フットサル コラム 2022年12月31日

圧倒的な技術力と類稀なる身体能力 ペレの全盛期を見ておきたかった・・・

後藤健生コラム by 後藤 健生
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この時の反転のスピードを見ても、ペレというのは非常にスピードのある選手だったということが分かる。

技術的にうまいのは当然なのだが、うまいだけの選手ならブラジルにはいくらもいる。

他の選手と違ったのは、戦術的な引き出しが多く、周囲の味方をうまく使って攻撃を組み立てることができるところであり、そして優れたフィジカル能力を生かすのがペレのプレーの特徴だった。

100メートル走は10秒台だったというし、一瞬の加速力は目を見張るものがあった。また、ほとんど助走をつけることなく高いジャンプができたので、172〜173センチとけっして長身ではないもののヘディングでも多数のゴールを決めている。

ペレは、アフリカ系のブラジル人だった。鉱山や砂糖やコーヒーのプランテーションでの労働のためにアフリカ大陸から連れてこられた奴隷たちの子孫である。

ブラジルという国もかつては人種差別の激しい国で、アフリカ系のサッカー選手とは契約しないというクラブもあったほどだ。多くのアフリカ系黒人選手がプロとして活躍できるようになったのは1940年代頃の話である。そうした先人たちが切り開いた舞台で、ペレの年代になると多くのアフリカ系選手がそのボールテクニックと身体能力を生かして活躍することになる。

しかも、今から考える信じられないことだが、当時はブラジル以外のサッカー強国ではアフリカ系の選手などほとんど存在しなかったのだ。そんな時代に独特のボールタッチのリズムと身体能力を兼ね備えた多数のアフリカ系選手を擁したブラジルが世界のサッカーをリードするようになり、1958年に初めてワールドカップでの優勝を遂げたのだ。

まさに、そういう時代の最先端にいたのがペレなのであり、またペレの存在そのものがアフリカ系選手の地位をさらに高めた。

まさに、ペレは新しい時代を切り開いた時代の寵児でもあったのである。

先ほども述べたように、僕は1972年、つまり3度目のワールドカップ優勝の2年後のペレを目撃することができた。しかし、それはもう彼の晩年と言ってもよかった。その後も、ペレはニューヨーク・コスモスの一員として、さらには釜本邦茂引退試合のゲストとして何度か来日している。だが、それはもちろん全盛期のペレではなかった。

圧倒的な技術力とフィジカル能力を兼ね備えたペレの全盛期を、一度でもいいから見ておきたかったものである。

文:後藤健生

後藤 健生

後藤 健生

1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。64年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、「テレビでCLを見るよりも、大学リーグ生観戦」をモットーに観戦試合数は3700を超えた(もちろん、CL生観戦が第一希望だが!)。74年西ドイツ大会以来、ワールドカップはすべて現地観戦。2007年より関西大学客員教授

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