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サッカー フットサル コラム 2022年12月31日

圧倒的な技術力と類稀なる身体能力 ペレの全盛期を見ておきたかった・・・

後藤健生コラム by 後藤 健生
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スリーバックが普及すると、イングランドではもともとセンターハーフだった「5」番の選手が最終ラインに入ってセンターバック(CB)となったので「5」はセンターバックの番号だが、ブラジルでは「5」はボランチの番号となった。

FW5人は右のウィンガーが「7」で、センターフォワード(CF)が「9」、左ウィンガーが「11」。インナーが「8」と「10」だったが、ブラジルでは「8」はポジションを下げてボランチとなり、左のインナーの「10」の選手が攻撃的MFとして花形になったのだ。

もっとも、ペレがセレソンで「10」を付けるようになったのはまったくの偶然だった。

1958年のスウェーデン大会を前の選手登録の時、ブラジル・スポーツ連盟(CBD)が背番号を記入し忘れてしまったので、FIFAが勝手にブラジル代表の背番号を決めてしまった。そして、どういうわけかペレに「10」の背番号が与えられたのだ。

大会前年の1957年7月に16歳で代表にデビューしていたペレも、当時はまだレギュラーではなかった。ワールドカップでも、ペレが初めて起用されたのは3戦目のソ連戦からだったのだ。だから、もしCBDが背番号を決めていたとしたら、ペレに「10」が与えられることはなかったはずだ。

こうして、偶然にもペレは「10」番を付けてスウェーデン大会でのブラジルの初優勝に大きく貢献。ペレといえば「10」というイメージが定着し、そして世界のサッカー界で「10」は特別な背番号ということになったのだ。

そうした“偶然”を生み出すあたり、ペレはやはり「神の子」の1人なのであろう。

幸い、僕はペレがプレーする姿を何度か目にすることができた。

初めて来日したのは1972年5月のことだった。日本サッカーの低迷期だったが、国立競技場が満員となって一種の社会現象も引き起こした。

DF山口芳忠の執拗なマークを受けたペレだったが、山口の鼻先で鋭いターンをしてマークを外して後半立て続けに2ゴールを決めて見せた。

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