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サッカー フットサル コラム 2022年10月13日

突き付けられた世界とのリアルな距離。ドイツに儚く散った青き勇者の記憶 【2006年ドイツワールドカップ】

土屋雅史コラム by 土屋 雅史
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間違いなく、惨敗だった。初めて挑む世界の舞台に舞い上がった1998年。自国開催の熱狂に後押しされた2002年。どちらも世界との距離を正確に測るには、まだ経験が浅すぎたのかもしれない。翻って2006年。3試合で勝ち点1という数字は、今から振り返れば当時の日本の立ち位置を過不足なく突き付けてくれる、貴重なレッスンだったのだ。

期待値はとにかく高かった。指揮官は常勝軍団・鹿島アントラーズの礎を築いた“神様”ジーコ。初陣のジャマイカ戦では、自身がブラジル代表の主力として出場した1982年ワールドカップの『黄金の中盤』よろしく、中田英寿、中村俊輔、稲本潤一、小野伸二を揃えた『日本版・黄金の中盤』をピッチへ同時に送り出し、多くのファンが夢のカルテットの実現に熱狂する。

2004年に開催されたアジアカップでは、完全アウェイの中国で何度も窮地に陥りながら優勝をさらう。世界準優勝に輝いた1999年のワールドユース。ベスト8まで勝ち上がった2000年のシドニー五輪。そして、グループステージを堂々突破した2002年の日韓ワールドカップ。世界と肌を合わせてきた実力者が居並ぶ陣容は、4年前を上回る躍進を予感させるには十分だった。

中村俊輔のゴールで先制した日本だったが…

だからこそ、カイザースラウテルンで味わった90分間はあまりにも落胆が大きかった。初戦の相手はオーストラリア。中村俊輔のゴールで先制しながら、怒涛の連続失点で日本は崩壊する。84分、ケイヒル。89分、ケイヒル。92分、アロイージ。サッカールーズの勢いに飲み込まれ、なすすべなく失点を重ねる光景は、日本サッカー史上最大級の悪夢だと言っていいだろう。

2戦目の相手は、フランスでもグループステージで対峙したクロアチア。川口能活がダリヨ・スルナのPKを気迫のセーブでストップしたものの、決定的なチャンスをエースの柳沢敦は決められない。スコアは0-0。次の相手を考えれば、限りなく負けに等しいドロー。絶望に近い感情がチームを覆う。なお、この一戦の終盤にまだ20歳だった気鋭のMF、ルカ・モドリッチが出場していたことも付記しておきたい。

3戦目の相手は、前回王者であり、世界最高のタレントを擁するブラジル。ロナウド、ロナウジーニョ、ロビーニョの“新3R”にカカまでスタメンで登場した王国を向こうに回し、日本は34分に玉田圭司が先制ゴールを奪う。勝利のみが次へと進む唯一の条件だった青き勇者に灯った希望は、しかし完膚なきまでに吹き消される。

ブラジルの新3R(左からロナウド、ロナウジーニョ、ロビーニョ)

44分、ロナウド。53分、ジュニーニョ。59分、ジウベルト。81分、再びロナウド。カナリア軍団の4発を食らった日本は、無残にも打ち砕かれる。自らの母国に完敗を喫したジーコは虚ろな表情を浮かべ、チームの絶対的な中心だった中田英寿はピッチの中央で起き上がれない。29歳の孤独な王様の現役引退が発表されたのは、それから11日後のことだった。

個人的にこの大会は、1979年生まれの私と同世代に当たる『黄金世代』にとっても、“区切り”の大会だったように感じている。前述した1999年のワールドユースで、日本史上初めて世界大会の決勝まで駆け上がった彼らは、その後も着々とステップアップを重ね、代表の中核を担うまでに成長していった。

だが、この世代を牽引し続けてきた小野は、ラスト10分余りで投入され、3失点を目の前で見せ付けられた初戦に出場したのみ。フォワードの軸として期待された高原直泰はノーゴールのまま、スタメンを外れたブラジル戦では途中出場したものの、左ひざを傷めてしまい、わずか6分で負傷交代。不動の右サイドバックとしてジーコの信頼を勝ち取った加地亮も、不断の努力で代表まで登り詰めた坪井慶介も、ブラジル戦がワールドカップにおける最後の試合となった。

ドイツではフィールドプレーヤーで唯一出場のなかった遠藤保仁が、その後の日本代表で圧倒的な存在になっていくのも不思議な巡り合わせだ。2010年に行われた南アフリカワールドカップに選出された『黄金世代』は、遠藤と稲本の2人だけ。同じアフリカで世界一まであと一歩に迫った世代の11年後としては、一抹の寂しさを覚えざるを得ない。

理想と現実のギャップを痛感するに至ったドイツワールドカップ。この時の惨敗がもたらした蹉跌は、急成長を遂げていた日本サッカー界において、あるいは必要な停滞だったのだろうか。ただ、この現実を知ったのが日本サッカーの父と称されたデットマール・クラマー氏との関わりを筆頭にして、それ以前から多くの交流と学びを得ていたドイツの地だったことに、ただの偶然とは思えない因縁を感じてしまうのは、きっと私だけではないはずだ。

文:土屋雅史

土屋 雅史

土屋 雅史

1979年生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。早稲田大学法学部を卒業後、2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社し、「Foot!」ディレクターやJリーグ中継プロデューサーを歴任。2021年からフリーランスとして活動中。

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