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サッカー フットサル コラム 2022年9月26日

3試合の幸福と、1試合の悔恨と。日本中を巻き込んだ青き勇者の記憶 【2002年日韓ワールドカップ】

土屋雅史コラム by 土屋 雅史
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あのベルギー戦を振り返る放送の冒頭。自らも歌っていた君が代を聞き終えた森岡隆三は、「鳥肌が立ちましたね」と話していた。まったく一緒だ。パソコンの画面で同じ映像を見ていた私も、森岡同様に自然と鳥肌が立っていた。2002年6月4日。この日の埼玉スタジアム2002には、会場を訪れていた人も、テレビの前で見守っていた人も、ありとあらゆる日本サッカーを応援する人のエネルギーが、まるで“元気玉”のように結集していたように思う。

初めて尽くしだった。ワールドカップがアジアに来るのも、複数国で共催されるのも、もちろん日本で開催されるのも初めて。あるいは、開催国が初戦で負ければ初めて、グループステージを突破できなければ初めて、というネガティブな“初めて”も事前情報として用意されていた。

チームを率いていたのはフィリップ・トルシエ。来日した時はまったくの無名だった指揮官は、しかしこの代表監督を務めていた4年間においては、日本で最も有名なフランス人だったかもしれない。そのぐらい2002年のワールドカップに臨む日本代表への関心は高かったのだ。

同じグループに入ったのはベルギー、ロシア、チュニジア。何とも言えない3か国が揃う。勝てないこともなさそうだが、負けないとも言い切れない。前回大会で敗れたアルゼンチン。結果的にこの大会を制したブラジル。ディフェンディングチャンピオンのフランス。わかりやすい強豪が同居していないだけに、最大の目標だった決勝トーナメント進出には希望と不安が入り混じっていた。

バイシクルシュートで日本から先制点を奪うヴィルモッツ。引退後は母国ベルギーやコートジボワール、イラン代表などの監督を歴任。

初戦。相手はベルギー。55,256人の大観衆が日の丸を振る。後半。のちに監督としてワールドカップに帰ってくるマルク・ヴィルモッツのオーバーヘッドが、日本ゴールを撃ち抜く。静まり返ったスタンドは、だがそこから青の歓喜で沸騰する。鈴木隆行のつま先シュート。そして、稲本潤一の豪快な逆転ゴール。結果は追い付かれてのドローではあったものの、「凄いものを見た」という高揚感に日本中が包まれた。

稲本が先制弾を決め1-0でロシアに勝利した日本

2戦目。相手はロシア。アレクサンドル・モストボイとヴァレリー・カルピンの“セルタコンビ”を擁し、3か国の中では最も手強いと思われていたチームだ。グループステージ突破には、勝ち点3が必要な一戦。再び稲本が輝く。アーセナルではほとんど出場機会を得られていなかった22歳の2戦連発弾。66,108人を飲み込んだ横浜国際競技場が揺れる。個人的に忘れられないのは、34歳の中山雅史がピッチに登場したシーンだ。前回大会唯一の得点者は、10番を背負ってこの舞台に帰ってきた。日本がワールドカップで初めて勝った瞬間、中山がピッチに立っていた事実は語り落とせない。

3戦目。相手はチュニジア。45,213人が見守る長居スタジアムで、そこをホームにする男が絶叫を連れてくる。48分。後半から投入されたセレッソの星、森島寛晃の先制ゴール。75分。押しも押されぬ絶対的主役、中田英寿の追加点。フランスでの屈辱から4年。日本代表は自国開催のワールドカップで、堂々と決勝トーナメントへと勝ち上がってみせた。

4戦目。相手はトルコ。何もかもが、いつもと違った。前線には大会初スタメンの西澤明訓と三都主アレサンドロが並び、12分に失点しても、一向に得点の香りが漂わない。雨にけぶる宮城スタジアムに詰め掛けた45,666人も、テレビ画面を見つめていた多くの人も、消化不良のままに試合は終わる。0-1。赤い“とさか”を濡らした戸田和幸が泣いていた。あれだけ燃え盛っていた青い炎は、宮城の雨とともに、くすぶったまま鎮火する。祭りのあとか、あとの祭りか。今でもあの90分間に対してモヤモヤした想いが拭えない人は、少なくないだろう。

おそらく日本中があれほどまでサッカーに染まる日は、もう来ないはずだ。若者はこぞって“ベッカムヘア”にトライし、宮本恒靖は“バットマン”として時の人となる。青いユニフォームを纏った若者が渋谷を闊歩し、なぜか“イルハン”は写真集を出すまでの人気者に。日常にサッカーの話題があふれ、当時の日本代表選手は圧倒的なスターだった。

私もその熱に浮かされていた1人であったことは間違いない。なにしろ「ワールドカップを生で見たい」というだけの理由で、本来はその年の3月に卒業できたはずの大学に留年届を提出し、“大学5年生”になっていたのだから。

だが、何とか抽選で当たったロシア対チュニジアの試合を神戸で見て、ワールドカップの空気へ直に触れたことで、「サッカーの仕事に就きたい」という希望は、決意に変わる。それからちょうど20年。実際に今でも望んだ仕事を続けることができているのだから、あの決断は悪くなかったのかもしれないと、留年中の学費を捻出してくれた両親も思ってくれていることを願うばかりだ。

文:土屋雅史

土屋 雅史

土屋 雅史

1979年生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。早稲田大学法学部を卒業後、2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社し、「Foot!」ディレクターやJリーグ中継プロデューサーを歴任。2021年からフリーランスとして活動中。

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