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サッカー フットサル コラム 2018年6月13日

パス・サッカーを求める西野監督たち それは、本当に日本の伝統だったのか?

後藤健生コラム by 後藤 健生
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ワールドカップを前にした日本代表の強化試合。強豪スイスには0対2の完敗したものの、大会前の最後の試合となったパラグアイ戦では、なかなか決まらなかったゴールが45分間に4回も決まって快勝。敗れたスイス戦も含めて、国内最後の試合となったガーナ戦に比べれば、内容は良かったのではないか。

全試合でセットプレーがらみで失点しているのも大きな課題。もっともセットプレーの守備など、相手を考えた対策は本番直前に行われるはずなので、現時点でセットプレーからの失点が続いているのは想定内でもある。 いずれにしても、攻守にわたってコンパクトな戦い方を取り戻し、敗れたスイス戦も含めて上向きとなっているのは間違いない。

オーストラリアに完勝してワールドカップ・アジア予選突破を決めて以来、日本代表が良い内容の試合を見たことがなかった。ニュージーランドやハイチといった格下に大苦戦したかと思えば、ブラジルにはまったく抵抗することもできずに大敗。2018年に入ってからの遠征でも、マリ、ウクライナに完敗。その頃に比べれば、5月、6月の3連戦はだいぶ上向きだった。

ハリルホジッチ監督が退任して、日本人スタッフの手にチーム作りが委ねられてから、明らかに変わったのはやはりそのプレースタイルだろう。トレーニング中に手倉森誠コーチが「デュエルに頼るな!」と声をかけている場面も見たが、パスをつないで選手間の距離を短くして集団で戦うという従来の日本サッカーの方向にシフトしているのは明らかだ。攻め崩せないにしても、中盤から前でボールを持つ時間が長くなることで、ゲームに落ち着きがもたらされた。

ハリルホジッチ監督がやろうとしていた「縦に速い攻め」あるいは「デュエル」の強調は、これまで集団的なパス・サッカーを追及してきた日本のサッカーの歴史と相容れないものだった。 ただし、「縦に速いサッカー」が好きか嫌いかというのは「好みの問題」。もし、ハリルホジッチ監督が「縦に速いサッカー」を本当に実践できたのなら、僕は応援するつもりだった(多様性を身に着けることが必要なのは間違いない)。だが、ハリルホジッチ監督の下で一向に「それ」が実現する様子はなかった。

フィジカル的にも技術的にも、日本人選手が「個の力」で欧州、南米の選手を上回ることは(少なくとも近い将来に限れば)できないはずだ。そんな選手を使って「縦に速いサッカー」をしようと思ったら、守備の戦術を研ぎ澄ますしかない。良い形で、高い位置でボールを奪って、その瞬間に勝負する。それしかないはずだ。だが、ハリルホジッチ監督の守備はマンマーク気味に人をつけてただ追い回すだけ。ボールを奪った瞬間には日本チームの選手のポジションは乱れ、選手間の距離も開きすぎている。

さて、監督解任騒動でパス・サッカーを巡る議論が活発化する中で、若いライターの間には「パス・サッカーは本当に日本の伝統なのか?」と言い出す人が出てきた。実は、それほど長い歴史はないのではないか、という人もいた。

だが、日本がパス・サッカーと出会ったのは実に90年以上も昔のことなのだ。 1917年のロシア革命の後にチェコの軍人が日本にやって来て広島に滞在し、そこで広島の中学生(現在の高校生)と試合をしたのが、日本人がパス・サッカーと出会った最初だった。当時オーストリア帝国に支配されていたチェコの軍人はロシア軍ととものオーストリア軍と戦っていたのだが、革命によってロシアが戦争を止めてしまったので、シベリア経由の東回りでヨーロッパに戻ろうとして日本に立ち寄ったのだ。

1860年代にオフサイド・ルールが変更された。サッカー史上最大のルール変更だった。それまでは、今のラグビーと同じようにボールより前の選手はすべてオフサイドだったのが、守備側のGKを含めて後ろから3人目(現在は2人目)の選手より手前ならオンサイドとなったのだ。つまり、このルール改正によって前へのパスが可能となり、それを利用して発明されたのがパス・サッカーだった。

発明したのはスコットランドのクイーンズパークというチーム。以後、パス・サッカーはスコットランドのお家芸となり、一方、イングランドでは昔ながらのキック&ラッシュとドリブル主体のサッカーが続いていた。

そして、スコットランド人の影響でチェコやハンガリーでパス・サッカーが発展。1920年代にはハンガリーのチームがアルゼンチンに遠征。それまでのイングランド・スタイルのサッカーをしていたアルゼンチン人もそれを見てパス・サッカーを始める。今のアルゼンチン・スタイルの原型だ。

日本で初めて理論的にサッカーを教えたのは、ビルマ(現ミャンマー)人留学生のチョウディンだった。ビルマは当時英国の植民地で、とくにスコットランド人が数多く赴任していたらしい。そのスコットランド人にサッカーを教えられたのがチョウディンであり、彼は各地の中学、高等学校にコーチとして招かれ、日本中でパス・サッカーを教えたのだ。

そして、第2次世界大戦前には日本人よりフィジカルの強い朝鮮のチームに対抗するために、そして戦後は欧米チームに対抗するために、日本はパス・サッカーを武器にしてきた。1960年代から70年代にかけて育成の遅れによってレベルが低下した時期に蹴って走るサッカーが全盛になったこともあったが、基本的には日本サッカーは100年近くもパス・サッカーを追及してきたのだ。 もちろん、過去がそうだったから、これからもそうすべきだというのではない。ただ、歴史的事実は踏まえた上で議論を進めてほしいと思っただけである。

後藤 健生

後藤 健生

1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。64年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、「テレビでCLを見るよりも、大学リーグ生観戦」をモットーに観戦試合数は3700を超えた(もちろん、CL生観戦が第一希望だが!)。74年西ドイツ大会以来、ワールドカップはすべて現地観戦。2007年より関西大学客員教授

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