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サイクル ロードレース コラム 2012年7月31日

日本代表 別府史之選手インタビュー

サイクルNEWS by 寺尾 真紀
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[写真]ロンドン五輪日本代表の別府史之選手

[写真]ロンドン五輪日本代表の別府史之選手

7月28日、土曜。英国史を辿る壮大なショーで開幕したロンドン五輪は第1日目を迎えた。肌寒さはあるものの、晴天の1日を予感させるように、雲の合間から時折朝日が差し込む。

五輪ロードレースのスタート/ゴール会場となったのは、エリザベス女王の居城であるバッキンガム宮殿とトラファルガー広場を結ぶ「ザ・マル(The Mall)」。この通りの南側に設けられた会場入り口を目指し、セント・ジェームズ公園の歩道を進んでいく。混雑も予想していたが、空港と同様の荷物検査を経て会場に入るまで、ほとんど待ち時間はなかった。

コース脇のスタンドの最前列からのぞきこむと、ちょうど選手たちのサインインが始まったところだった。会場のアナウンスを受け、一か国ずつ、ゴール前50m地点に設置されたサインイン台に向かう。サイン台の正面でまずカメラ撮影のためにポーズをとり、それから裏側に回って自分の名前をサインする。残念ながら選手の表情までは見えないが、どの選手も普段のレースよりどことなくかしこまったような雰囲気があった。

午前9時のサインイン開始からどのくらいが経っただろう。日本の国名がアナウンスされ、新城幸也選手、別府史之選手が姿を現した。赤・白にグレーを効かせたナショナルジャージに身を包んだ二人とも、良く日に焼けて、精悍な印象。応援のため渡英してきた両親の姿を見つけ、サインインを終えた別府選手がスタンド席に近づいてきた。

五輪準備のためポーランド一周に参戦していた別府選手を取材(ポーランド一周現地レポート)したのは10日ほど前のことになるが、その時のリラックスした雰囲気と一転した、思いつめたような表情にびっくりした。声をかけるとぱっと笑顔に変わることが常の別府選手の目にも口許にも、笑みのかけらはなかった。父の言葉に唇を結んでしっかりと頷き、くるりと踵を返してスタートへと向かっていく。ワンデーレースならではの緊張感もあるのかもしれないが、他のレースに対してとは違う、このレースに対する彼の思いが伝わってきた。

この7月、別府選手には大切な2人の人との別れがあった。祖父、そして幼い自分が自転車を始めるきっかけになった渡邊努さん(ワタナベ・レーシング)が相次いでこの世を去ったのだ。父はその2人の写真をロンドンに持ってきており、スタンドから声をかけた際に別府選手に見せた。2人の写真を手にした別府選手は一つも言葉を発さなかったが、そのことが逆に彼の決意を感じさせた。

英国代表をねぎらったウェールズ公とコーンウォール公妃がコースから退出すると間もなく、レーススタートへのカウントダウンが始まった。五輪ロードレースには仮スタートやパレード走行はない。午前10時が250kmのレースの真のスタートだ。号砲と共に、プロトンはバッキンガム宮殿に向かって走り出した。

定められたパレード走行はないはずだったが、テムズ川を越え、リッチモンド公園に達するまでプロトンからのアタックは始まらなかった。アタックが始まったのは公園を抜けた瞬間。数組のアタックが不成功に終わったあと、12人の逃げ集団が形成され、プロトンをぐんぐんと引き離した。オグレディ(オーストラリア)、ピノッティ(イタリア)、ルーランツ(ベルギー)、メンショフ(ロシア)、ブライコヴィッチ(スロヴェニア)、シャー(スイス)、ダッガン(アメリカ)などと共に、別府選手もこの先頭集団に名を連ねた。

9周回のコースとなるボックスヒルに辿り着いたとき、先頭集団とメイン集団との差は5分55秒。マルティン(ドイツ)がイギリス勢と共にメイン集団を牽引するが、タイム差はさほど縮まらない。4周目に入り、メイン集団からニーバリ(イタリア)、ジルベール(ベルギー)、エルミガー(スイス)がアタック。このアタックは成功しなかったものの、次周(第5周回)にはこの2選手にパオリーニ(イタリア)、シャヴァネル(フランス)、フグルサング(デンマーク)、ボーム(オランダ)、ラスト(スイス)らを加えた11名が追走集団として先頭とのブリッジを試みる。

メイン集団のペースメーキングは相変わらずイギリス・チームにゆだねられていたが、上りをカヴェンディッシュのペースに合わせているためか、ボックスヒルの登りを越えたあとの下り+平坦区間の猛スピードをもってしても、大きなスピードアップは見込めない。しかし、メイン集団からのアタックや、追走を感知した先頭集団のペースダウンもあり、いまや22名に膨らんだ先頭集団とメイン集団との差は一時40秒台にまで縮まった。メイン集団からのアタックはボックスヒル最終周回になっても続き、レース最前線でソロアタックに出たジルベールの背後では、カンチェッラーラ(スイス)とバルベルデ(スペイン)といった有力選手がさらに先頭集団へと加わった。

ボックスヒルの周回コースから、ロンドンのゴールまでのアプローチ40km。メイン集団ではイギリス勢が孤軍奮闘する一方、先頭グループの32人は、スイス、スペイン勢を加えてスピードに乗った。リッチモンド公園まで辿りついたところでカンチェッラーラのクラッシュがあったが、その後も2グループの時間差は変わらず、残り10kmのタイムチェックで約50秒。渾身の力で牽引してきたイギリス・チームの夢が実質上終(つい)えた瞬間だった。

最終的にレースの勝利は、その直後に先頭集団から飛び出したヴィノクロフ(カザフスタン)、ウラン(コロンビア)のものとなった。先頭グループはこのアタックに反応することができず、この2選手をみすみす行かせてしまったのだ。この2選手から8秒遅れでフィニッシュラインに飛び込んできた3位集団にはチャンスを虎視眈々と狙ってきた別府選手の姿があったが、スプリントを制して銅メダルを獲得したのは、別府選手と共に最初から逃げ続けていたクリストフ(ノルウェー)。別府選手は3位と同タイムの22位に終わった。

レースの翌朝、選手村近くのショッピングモールで別府選手に話を聞くことができた。小径車を転がし、ストラットフォードの駅でご家族を迎えた別府選手の表情は朗らかで、大きな疲れは見えなかった。まず聞いてみたいと思ったのは、最後のスプリント。ジルベールと絡んだ、という話も聞いていた。

「実は、足は全然残っていたんです。ボックスヒルでも、ロンドンへのアプローチでもなるべく足を使わず、力を温存していた。自分の勘違いで、ゴールラインがもう少し先だと思っていたんです。だからスプリントのタイミングが遅くなってしまった。えっ、もうゴール!?という気持ちだった。確かにジルベールが蛇行してきてぶつかりましたが、大きく遅れたわけではないです」

レース無線を使えず、後方からの情報が全く入って来ない状況だったが、それでもレースの流れが自分たちに来ている、という手ごたえは途中から感じていた。

「後ろ(メイン集団)から合流して来るのが数人ずつだったから、追いきれてないな、ということがわかった。イギリスはカブ(カヴェンディッシュ)を待つから一気に追いついて来ないだろうと予測していたし、印象としてはイギリスのペースはあまり変わらない感じがして、ちょっと待て、やっぱり今日逃げたのは大成功だったな、と思っていました。逆に、自分が集団の中に残っていたと考えてみても、あそこからあのメンバーと一緒に先頭まで上がっていく、というのはけっこう厳しかっただろうと思う。その点でもあの逃げに乗った自分の判断は良かった」

リッチモンド公園近くでアタックが多発した頃、レースの平均時速は56km/hに達していた。あれだけのメンバーがそろった逃げ集団に入ることができたのは、最初から逃げでいこう、と決めていたからだったのだろうか。

「主要チームが逃げに選手を送りこむ可能性があると思っていたから、メンバーを見て、これだ!と思う逃げだったら必ず乗らなくちゃいけないと思っていました。パレード走行はなかったんですが、実際にはリッチモンド公園の辺りまでみんなパレードのようにのんびり走行していた。普通だったらぽつぽつアタックがあってもおかしくないのに、イギリスやベルギーはトイレ休憩まで始めてしまって、それで逃げを見逃したというのがあると思う。あそこで15人20人行ってしまったら終わりだから、僕は警戒して止まらなかった。逃げに入ったのは、あそこで止まらなかった選手。世界選だったら、ここで決まった逃げは決まらなかったかもしれないけれど、五輪の展開は違う」

「逃げに入るのは、めちゃくちゃなハイスピードでした。でも調子が良かったから、そんな速さでも普通に入ることができた。ちょっと最初に力を使うのはしゃくだなと思ったのですが、メンバーにイタリア、スペイン、イギリス以外の主要国がみんな入っていて、メンバーも良い。これはゴールまで行ける可能性がある、追いつかれたとしても絶対少人数だから、必ずゴールまで行ける。そう信じていた」

逃げにチームメートのオグレディや、よく話をする選手たちが乗っていたのも有利に働いた。

「ペースの配分はオグレディが中心でやっていました。途中で牽く、牽かないの話があったけれど、オグレディだけじゃなく例えばスイス人選手もよく知っていたし、コミュニケーションもちゃんと取れた。6分後ろからロジャースが追いかけているのを理由にオグレディが牽かなくなったりとか、オランダ人選手が全然牽かなかったりとかいろいろありましたけれど・・・。あのロジャース追走はもしかしてオグレディ温存の戦略なんじゃないかと思いましたよ!」

途中で後ろの集団から多くの有力選手が追いついてきた。新しい選手たちの顔ぶれを見て、どんな戦略で行こうと考えていたのだろうか。

「逆にありがたかったです。例えばニーバリもピノッティもパオリーニのためにずっと牽いて、それでいなくなった。ペースが上がって集団との差を守れるし、僕は力を温存できる。スペインやスイスがブリッジしてきたときには、逆にペースを落として待ちました。あそこからゴールまで、置いて行かれるような地形がなかったから、後方でためてためて・・・。難しかったのは、ラジオもなくて、インフォメーションが少なくて、あと残り何キロかもわからなかったし、あとタイム差もたまにしか知ることができなかったことです」

ジロ・デ・イタリア以降、ポーランド1周で順調に調整を続け、その後もトレーナーとやり取りをしながら五輪の準備に取り掛かってきた。

「ワットで見てもしっかりリザルトが出ていたから、自分でもかなり調子がいいことがわかっていました。20秒間で1000ワット以上出ていたんです。反復トレーニングも何回も山で繰り返してきた。手ごたえも自信もあって、ここにやってきました」

あと一歩。最初から肩を並べて走ってきたクリストフは銅メダルを獲得した。その3位クリストフと同タイム22位で終わったレースを、別府選手はどんな気持ちで振り返るのだろう。彼は一瞬真顔になり、それからいつも通りの笑顔になって、こうまとめた。

「やることはやった、という気持ちです。本当に、自分にできる限りのことはした」

幼いころから温かく自分を支えてくれた様々なひとたちを思いながら走った250km。思いのほか静まり返ったロンドンのゴールラインを越えたとき、彼の「ありがとう」の気持ちはきっとその人たちの胸に届いたのではないか、そんな気がした。

代替画像

寺尾 真紀

東京生まれ。オックスフォード大学クライストチャーチ・カレッジ卒業。実験心理学専攻。デンマーク大使館在籍中、2010年春のティレーノ・アドリアティコからロードレースの取材をスタートした。ツールはこれまで5回取材を行っている。UCI選手代理人資格保持。趣味は読書。Twitter @makiterao

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