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サイクル ロードレース コラム 2016年5月9日

これだから、サイクルロードレースはやめられない!印象に残る3つの「番狂わせ」<ジャイアントキリング特集>

サイクルNEWS by 寺尾 真紀
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ロードレースの世界でのジャイアント・キリング、あるいは、番狂わせ。そう聞いたときに、どんな勝利が、あるいは敗北が、まず頭に浮かんでくるだろう。

たとえば、グランツールで総合優勝の有力候補だった選手が、落車でレースを去る。あるいは、勝負どころで大きく崩れ、優勝争いから後退する。

メイン集団に先行してレース先頭を行く『逃げ』に加わった選手が、確率的にも難しいとされている『逃げ切り』を成功させて、勝利をあげる。

普段はエースのアシストに徹している選手が、展開の妙、たとえばエースにトラブルがあるなどして、チームからカルト・ブランシュ(自由に自分の勝利を狙っていってよい、というお墨つき)をもらい、勝利をものにする。

そのどれもが、おそらく「番狂わせ」と呼べるできごとであるのと同時に、そのどれもが、ロードレースの世界では、決して珍しいことではない。反対に言えば、「番狂わせ」が起こりうる可能性を常にはらんでいることこそが、このスポーツの魅力なのかもしれない。

そのコナンドラム(なぞなぞ)に頭を悩ませながらも、印象に残る、3つの『番狂わせ』に触れてみたいと思う。

クリス・フルーム(2012年ツール・ド・フランス ラ・トゥスイール)

ブエルタ・ア・エスパーニャでブラッドリー・ウィギンスのアシストを命じられたとき、クリス・フルームにはあとがなかった。プロ入り4年でわずか2勝。ジロの山岳できらりとしたところを見せ、バーロワールドからチームスカイに移籍したが、いいところなし。ジロに出場する機会をもらったが、疲労感におそわれ、警察のモトにつかまっているところを見とがめられ、失格になってしまった。ジロの最終ゴール、ヴェローナまでは、あと2日だった。その後も長期にわたって体調不良は続き、思うような成績は出ない。契約の更新時期が近づいていたが、スカイはさじを投げる寸前だった。

しかし、フルームには一筋の光が見えていた。それは、体調不良の原因が判明して、治療に取り組んでいたこと。スカイに加入する少し前に訪れた生まれ故郷のケニア(しかしフルームの両親は英国人である)で、知らないうちに、住血吸虫症という寄生虫に感染していたのだ。強力な薬剤を使っての駆除は辛かったが、それでもフルームは希望を感じていた。

最後のチャンスのブエルタで、フルームは起死回生の活躍を見せる。山岳でエース、ウィギンスを支え続け、個人TTの好成績で、1日は総合首位にも立ってしまった。しかし、その翌日からはウィギンスの総合優勝のための忠実なアシストに徹した。ロスを取り返す余地もなくウィギンスが失速したあと、ようやくフルームは自由に走る許可を得る。フルームはペニャ・カバルガで初のグランツール区間優勝をあげ、結局13秒遅れの総合2位でレースを終えた。

念願どおり、大幅にアップした年棒でスカイとの契約を更新したフルームだったが、チームに与えられた役割ははっきりしていた。ロンドン五輪イヤーである2012年ツール山岳でウィギンスのアシストを務め、彼を英国人初のツール覇者にすること。ウィギンスは世界トップクラスのタイムトライアリストであり、一番の強みは山岳ではない。山岳で彼に寄り添う忠実なアシストが、なんとしても必要だったのだ。

ウィギンスが予期していなかったのは、彼のもっとも忠実なアシストが、彼のもっとも大きな脅威になってしまったことだった。第7ステージでフルームが初のツール区間優勝をあげ、自らはマイヨジョーヌを手に入れたとき、ウィギンスの表情はリラックスしており、フルームの勝利を心から祝福しているように見えた。しかしそのわずか5日後、大きな「番狂わせ」が起きる。アルプスのラ・トゥッスイール。総合争いのカギとなるこの峠の頂上から4kmのところで、ウィギンスを一人孤立させたまま、フルームが前に飛び出してしまったのだ。アシストが、アシストであることを忘れた、あるいはやめた、瞬間だった。

自制心を失い、「ボス」を置き去りにして前を急いだフルームに対し、すぐ足を止め、ウィギンスのところに戻るよう、チームから指示が飛ぶ。ウィギンスのところに舞い戻り、彼のアシストを再開したフルームだったが、ウィギンスの信頼は永遠に失われた。

ウィギンスはこのツールを制し、同年のロンドン五輪の個人TTでは金メダルを獲得する。翌年のツールのリーダーシップをめぐっては、ウィギンス(陣営)とフルーム(陣営)の確執が長く続いたが、ツール100回記念大会のエースとしてチームスカイが選んだのは、フルームだった。2013年のツールで、フルームが弱さを見せた瞬間はほとんどなかった。山岳でTTで圧倒的な強さを見せつけ、フルームは、英国人としてはウィギンスに続く2人目の、アフリカ生まれとしては初の、ツール総合優勝者となった。

ウィギンスは、2014年の春を最後にチームスカイから離れ、自身が立ち上げたコンチネンタルチームに移籍した。彼がツールに戻ることは2度となかった。

ダニエル・マーティン(2014年 ジロ・デ・イタリア ベルファスト)

2014年のジロ・デ・イタリアは、アイルランド島で開幕した。北アイルランド(英国統治)のベルファストでまず2ステージが行われ、3日目、レースは北アイルランドからアイルランド共和国の首都ダブリンへ。ベルファストのタイタニック博物館のスタートラインには、3人のアイルランド人選手が並んだ。そのうちニコラ・ロシュとダニエル・マーティンはいとこ同士で、ニコラの父であるステファン・ロシュ(1987年ツール総合優勝の)は、マーティンの母の兄にあたる。マーティンはイギリスのバーミンガムで生まれ育ったが、10代の終わりからは、母の出身地であるアイルランドの国籍を選び、競技活動を行っていた。

生粋のアイルランドっ子ではないかもしれないが、アイルランドの国内チャンピオンジャージを身につけて走ったこともあるし、アイルランドチームの一員として、世界選手権も走っている。何よりもここは、彼の母の生まれ故郷だ。ジロ・デ・イタリアのレーサーとして、アイルランドの群集の前に姿を見せ、ベルファストやダブリンの通りを駆け抜ける。それはきっと、現実を超えたような体験になると思う、とレース前の彼は口にしている。

5大モニュメントという、ワンデー・クラシックの中でも特に歴史が古いレースがある。マーティンは前年、この5大モニュメントの中でも特に格式が高いとされる、リエージュ・バストーニュ・リエージュで優勝を飾っていた。ジロが開幕する13日前、ディフェンディング・チャンピオンとして臨んだリエージュの最終コーナーで、マーティンは転倒した。落車の直前に彼は2番手につけていたが、落車がなかったらどうなっていたかは、もちろん知るよしがない。幸い大きなケガはなく、ジロの出場が危ぶまれることはなかったが、彼の落胆は大きかった。落胆が大きいからこそ、ジロに向けての彼の意欲は高まっていた。総合トップ何位とか、区間優勝であるとか、具体的な目標を口にすることはなかった。一日一日を、自分にできるベストの走りで過ごしていきたい。それで最終的にジロでどこにたどりつけるかを見てみたい ―

ダブリンで迎えたジロ初日は、チームタイムトライアル(TT)。マーティンのチーム、ガーミン・シャープは、もともとチームTTには定評があり、ジロのチームTT(2012年)での優勝経験もある。雨も上がり、路面のコンディションも次第にドライに変わっていく中で、ガーミン・シャープの9人がスタート台を飛び出し、ダブリンの市街地を走り抜けていく。途中でたたき出した中間計測タイムも悪くなかった。後半順調にタイムを刻んでいくことができれば、ジロ初日のマリアローザに、手が届く可能性も十分あった。 (この場合、フィニッシュラインを先頭で通過した選手がマリアローザを着用することになる) そして、仮定に仮定を重ねることになるが、もしここでマリアローザを手に入れれば、ダブリンまでピンク色のリーダージャージを守り切ることだってできるかもしれないのだ。 ガーミン・シャープのレース前ミーティングでも、その可能性は口にされたのではないかと思う。また、たとえ口にされなかったとしても、チームの誰もが、その可能性を強く意識していたはずだ。

しかし、走行開始から15分後に、「番狂わせ」は起きた。流線型になり、すべるように進んでいたガーミン・シャープの隊列で、落車が起こったのだ。まずマーティンのタイヤが濡れた路面ですべり、バランスを崩し、地面に叩きつけられた。よけきれず、すぐ後ろにつけていた3人のチームメートも、次々と地面に投げ出される。痛みをこらえてうずくまる仲間たちとともに、マーティンも足を投げ出して地面に座り、肩をおさえた。

ダニエル・マーティンのジロは、ベルファストのアスファルトの上で終わりを迎えた。

リエージュとジロで落車し、ジロの鎖骨骨折でツール出場も逃したマーティンだったが、不運続きの2014年を、そのままでは終わらせなかった。

シーズンの終わりを飾る「落ち葉のクラシック」、ジロ・ディ・ロンバルディア。レース終盤、狙い済ましたアタックを成功させて、マーティンは勝利をもぎ取った。ジロ・ディ・ロンバルディアも、ワンデー・クラシックの最高位に並べられる、5大モニュメントの一つ。マーティンが少年時代にこよなく愛したのも、リエージュとロンバルディアだった。

ガーミン・チポートレ(2008年 ツール・ド・フランス)

アンダードッグ("underdog")という言葉を聞くたびにぱっと脳裏に浮かんでくるのが、ワイルドカード(招待枠)を獲得し、2008年のツールに出場した、ガーミン・チポートレ というチームである。

※ 現在はキャノンデール・プロサイクリングチームと呼ばれるこのチームに、小さく無名だった頃の面影はほぼありません。その根底にあるスピリットはどうであれ、少なくとも外面的には、アンダードッグ、という形容とはほぼ対極のビッグ・チームへと成長しています。アンダードッグ、という表現については、2008年ツール出場当時のチームについての言及であると、どうぞご理解ください。

このチームのはじまりは、元プロロード選手のジョナサン・ヴォーターズが、私費5万ドルを投資してコロラド州に立ち上げた、育成チームまでさかのぼる。ヴォーターズが現役選手だった90年代から2000年代前半は、まさにドーピングの全盛期だった。夢と不正の選択を迫られ、自身もドーピングを行った後悔から、彼には一つの決意があった。ドーピングのない、クリーンなチームを作り上げて、最高峰のレース、ツール・ド・フランスに挑戦すること。どんなレースもクリーンに勝ちうるものなのだということを、ロードレースを愛するすべての人たちに示すこと。

投資家の支援を受け、まずチーム独自のドーピング対策(血液モニタリングプログラム)を採用したヴォーターズは、2008年ツール・ド・フランスのワイルドカード(招待枠)を視野に、チームの補強を始めた。いわゆる、華やかなスター選手を集めたチームではない。多くは、長くキャリアを積んできたベテランだ。パリ〜ルーベとツール区間で優勝経験のある、マグヌス・バクステッド。英国TT王者だが、TT世界選のタイトルをドーピング違反で剥奪された過去を持つ、ディヴィッド・ミラー。長年ドメスティック(アシスト)としてエースたちのために働いてきた、クリスチャン・ヴァンデヴェルデ・・・

プロ・コンチネンタルチームとして2008年をスタートしたチームは、カタールやカリフォルニアなど、行く先々のレースで快進撃を見せる。続く春のクラシックでもロンド(ツール・ド・フランドル)、パリ〜ルーベで好成績を残し、欧州でフルのレースプログラムをこなすのは難しい、という資金面の苦境にも関わらず、目標にしていたツールだけでなく、もう一つのグランツール、ジロの招待枠も獲得した。

7月5日、フランスのブレストから初めてのツールに乗り出したガーミン・チポートレは、3週間後、バクステットを欠いた8人で、パリのシャンゼリゼにゴールする。故障続きでチーム加入前には現役引退さえ考えていたヴァンデヴェルデが総合4位に入り(4ステージでトップ10、2回の個人TTでトップ5)、他にもウィル・フリッシュコーンが区間2位、ダニー・ペイトが区間3位、ミラーが個人TT3位と、チームTT優勝とマリアローザ着用を達成したジロの再現こそ叶わなかったが、堂々たるツールデビューを果たした。

コロラド出身の小さな無名チームが、ロードレース界という巨人にパンチを繰り出したような、そんな7月だった。

"アンダードッグ"としてスタートしたガーミン・チポートレが、ツール・ド・フランスで初の区間優勝をあげるのは、それから3年後、2011年のことになる(このときには、チームはサーヴェロ・テストチームと合併し、ガーミン・サーヴェロという名前になっていた)。レ・ゼサールのチームTTでベストタイムを叩きだした9人は、チームにとって初めてのツールのポディウムに、ヴォーターズを担ぎ上げた。ヴァンデヴェルデ、ミラー、ディーン、ヘシェダル、ザブリスキー、ファラーら、2008年から同じ夢を目指してきた選手たちの笑顔が、ヴォーターズを囲んでいた。

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寺尾 真紀

東京生まれ。オックスフォード大学クライストチャーチ・カレッジ卒業。実験心理学専攻。デンマーク大使館在籍中、2010年春のティレーノ・アドリアティコからロードレースの取材をスタートした。ツールはこれまで5回取材を行っている。UCI選手代理人資格保持。趣味は読書。Twitter @makiterao

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