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サイクル ロードレース コラム 2016年5月10日

落車が巻き起こす筋書きのないドラマ<ジャイアントキリング特集>

サイクルNEWS by 辻 啓
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小人が巨人を倒すという意味で使用される「ジャイアントキリング」。少し的外れかもしれないが、一般的には「番狂わせ」と訳されることから、今回は落車にまつわるエピソードを紹介します。

200人近い選手が一つの集団の中にひしめきあいながら200km近いコースを走るロードレースにおいて、落車は日常茶飯事。落車、つまり自転車から落っこちること。プロ選手の中で落車を経験したことのない選手なんて存在しない。誰もが一度はバランスを崩す、スリップする、転んだ前走者に接触する、風で吹き飛ばされる等の理由で地面に投げ出され、怪我を負い、ある者は骨を折り、ある者は勝利のチャンスを失い、またある者は致命傷を負ってキャリアを終えた。

走る側も見る側も出来ることなら見たくない落車だが、どれだけテクノロジーが発達しようとも、残念ながらロードレースと落車は切っても切れない関係にある。むしろ近年は落車が増加傾向にあるとも言われる。パンクや機材トラブルと並んで落車はロードレースの一部。いずれもレースに予想外の展開を加える要素だ。

どれだけ圧倒的な優勝候補であっても落車に巻き込まれるとチャンスは消えてしまう。そのため「玉突き事故」のリスクを少しでも下げようとアシスト選手たちは隊列を組み、風よけとなってエースのポジションを守る。ロードレースは個人スポーツと思われがちだが、自己犠牲の上に成り立ったチームスポーツだ。

短くて複数日、長くて3週間にわたって開催されるステージレースにおいて、総合時間賞トップのリーダージャージを着る選手が落車に見舞われた場合は、ライバルたちが攻撃を止め、総合リーダーの復帰を待つという不文律が存在する。近年その不文律が薄れつつある問題については置いておいて、ルールブックには書かれていない暗黙の了解がロードレースには浸透している。

特にグランツールと呼ばれるジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランス、ブエルタ・ア・エスパーニャという3週間のステージレース最終日に限っては、総合争いは実質上争われない。仮に総合リーダーがトラブルに巻き込まれれば集団はペースを落とし、3300kmにも達する距離を最も少ない時間で走りきった覇者を待つことになる。

とは言っても最終日が個人タイムトライアルであれば話は別だ。近年では2012年ジロ・デ・イタリア最終日の28.2kmのタイムトライアルでライダー・ヘシェダル(カナダ)がホアキン・ロドリゲス(スペイン)との31秒差をひっくり返して総合優勝を果たしている。歴史を遡れば、1989年のツール・ド・フランスでグレッグ・レモン(アメリカ)がパリの最終タイムトライアルでローラン・フィニョン(フランス)を逆転し、マイヨジョーヌを手にしている。

2009年のジロ・デ・イタリアでも同様の逆転が起こるのではないかと、イタリアのファンは期待していたに違いない。ヴェネツィアの沖合に浮かぶリード島で始まった3週間の戦いは、ドロミテ山塊とアルプス山脈を越えてデニス・メンショフ(ロシア)がリード。オランダのラボバンクに所属する寡黙なロシアンライダーに対して攻撃を繰り返したのはダニーロ・ディルーカ(イタリア)だった。

イタリアを味方につけたディルーカの執拗な攻撃にもメンショフは崩れない。第20ステージを終えて、つまり閉幕まであと1ステージを残してメンショフはディルーカに対して20秒リード。通常であればこの時点でメンショフの総合優勝が事実上確定だが、この年の最終日はローマのコロッセオ前にフィニッシュする個人タイムトライアルだった。

厄介なことに最終日は雨。降水確率70%。ただでさえ凸凹のローマ市内の石畳はスリッピーな状態となり、どの選手も慎重にTTバイクを前に進める。リスクを負わずに淡々と走るマリアローザのメンショフ。ディルーカからタイムを失うことなく、むしろタイムを奪う走りでフィニッシュに向かう。ウルティモキロメトロ(残り1kmアーチ)が見えたところでおそらくメンショフは胸をなでおろしたことだろう。しかしその刹那、コロッセオが見えてきたところで突然タイヤがグリップを失い、メンショフはスリップダウンした。

イタリアの観客が固唾を飲んで見守る映像の中で、10mほど滑って止まったマリアローザのメンショフ。会場のアナウンスが「落車!マリアローザが落車!」と叫ぶ。逆転を願うディルーカが険しい表情でテレビモニターを凝視する。劇的な番狂わせが起きるのではないかと観客が色めき立つ。

しかしメンショフは冷静だった。立ち上がった次の瞬間、ラボバンクのメカニックがスペアバイクを抱えて駆けつけ、メンショフの背中を強く押し出して再スタートさせた。予行演習でもしていたのではないかと思うほどの迅速なメカニックの対応によってメンショフはマリアローザを守った。

普段あまり感情を表に出さない男が、バイクを降りてすぐに、総合優勝の雄叫びをあげた。3447.4kmを86時間2分35秒で走ったメンショフの平均スピードは40.057km/h。長い歴史の中で3週間の平均スピードが40km/hを超えたのは後にも先にもこの2010年だけだ。なお、その後の2度のドーピング発覚によってディルーカは生涯出場停止処分を受けた。ジロ総合2位の成績は剥奪されている。

一般的には「番狂わせは起きなかった」と捉えられたが、「オランダチームのロシア人が転びながらも勝ち、国中を沸かせた地元イタリアチームのイタリア人が勝てなかった」というある意味で逆説的な番狂わせの雰囲気を感じずにはいられなかった。「ジャイアントキリング」の言葉に戻ると、巨人は倒れたが、小人が勝つことはなかった。「キラー(殺し屋)」の愛称をもつディルーカであっても、(ジャイアントの自転車に乗っている)メンショフは倒せなかった。

代替画像

辻 啓

海外レースの撮影を行なうフォトグラファー

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