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バドミントン コラム 2024年4月18日

バドミントン桃田賢斗「充実した代表人生だった」、日本代表を引退

バド×レポ by 平野 貴也
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記者会見にのぞむ桃田賢斗

バドミントン男子シングルスの桃田賢斗(NTT東日本)が18日、都内で記者会見に臨み、 27日に開幕する男子国別対抗戦トマス杯を最後に、日本代表での活動を引退することを明らかにした。桃田は「2020年1月の交通事故から苦しいこともたくさんあった。気持ちと身体のギャップが続く中、世界一を目指そうというところまでいけないなと判断したところと、まだ自分が動けるうちに、ジュニアの選手やバドミントンをしている人たちと、もっともっと羽根を打つ時間が欲しいなと思って、代表を引退しようと決意しました」と代表活動を退く理由を説明した。途中で出場停止処分を受けた時期もあったが、2014年の初選出から約10年にわたって日本代表で活躍。「しんどいことだらけでしたけど、すごく貴重な経験をさせていただきましたし、とても充実した代表人生だった」と振り返った。

■2月のアジア団体選手権で決断、事故後は「思うように見えない部分もあった」

桃田は、2018年、19年に世界選手権を連覇。21年3月まで3年以上にわたって世界ランク1位をキープするなど、世界一の選手として活躍し続けた。しかし、20年1月にマレーシアで交通事故に遭って以降は、東京五輪で予選ラウンド敗退を喫するなど以前のような活躍ができず、成績は急失速。腰の痛みなどで大会を欠場することも多くなった。4月末で終わるパリ五輪出場権獲得レースは、日本勢2番手、全体16位以上が五輪出場の最低条件だったが、日本勢7番手の全体52位に終わり、2大会連続の五輪出場を逃した。桃田は「目の手術をしてから、正直、思うように見えない部分もあったり、思うように身体を動かせないところがあったり、普段の練習で疲れない(はずの)練習量であっても疲労を感じたりとか。そういった中で、僕なりにトライしてきましたが、世界のトップの人たちと戦うレベルには、もう厳しいかなと思いました」と事故の影響を感じながら戦っていたことを明かした。決断の時期には、24年2月に行われたアジア団体選手権を挙げて「もう、自分の中で今、日本代表引退を決断しても、後悔することはないだろうと思った」と話した。

■成績低迷の中でも戦い続けた理由は「事故のせいにしたくなかった」

 

20年1月の交通事故後、東京五輪までは復調が間に合わなかったという見方が強かった。コロナ禍で国際大会に参加できる機会が減り、東京五輪までは多くの実戦を経験できず、五輪は自国開催で金メダル筆頭候補の重圧もあったからだ。しかし、その後も国際大会で初戦敗退が続き、異変は明らかになった。ただ、引退が近い可能性を匂わせるような弱気の発言をするようになる一方で、22年夏以降はプレースタイルの変更に挑戦。23年11月には韓国マスターズで優勝。日本A代表が主戦場とする大会よりは格下の大会ではあったが、約2年ぶりの国際大会優勝を飾るなど、意地を見せた。全日本総合選手権では、22年、23年と連覇。ファンの前で底力を見せつけるなど、復活の可能性を示した。記者会見では、事故後、成績が出なくなった中でプレーを続けて来た理由について、何度も質問が飛んだ。桃田は「事故に遭った当初は、なんで自分なんだろうと思っていないと言えば、ウソになる。本当に、辛いことだらけだった。でも、その辛いことを事故のせいにしたくないというか、それすら弾き返したかった。その気持ちと、周りの人の心強いサポートのおかげで踏ん張ることができた」と反骨心と周囲の支えを理由に挙げた。

■可能性の模索と葛藤、背景に「コートの中でしか表現できない」思い

23年の終盤は、国際大会で優勝し、全日本総合を連覇。国際大会での巻き返しが期待された。しかし、全日本総合で背中を痛めるなど、負傷との戦いは避けられなかった。24年1月のインドネシアマスターズは、予選で敗退。2月のアジア団体選手権では、格下相手に3勝を挙げたが、相手のレベルが上がった本戦では勝てなかった。桃田の成績は、大きく分ければ、交通事故の前後で大きく異なるが、事故後も迷い続けた低迷期と、その中でもがき、努力を続けて新しい可能性を探った時期とに分かれる。もう無理だ、でももう一度。挑戦を続けること自体に葛藤もあった。しかし「僕一人の考えとして代表を引退しようというのは簡単だったと思いますけど、今まで支えてくれた人たちへの感謝の気持ちは、コートの中でしか表現できないという思いがあった。そういう人たちの前で簡単に諦めたくない気持ちもたくさんあった」とプレーを通して表現できることの価値を信じて、挑戦を続けていた。

■出場停止処分からの復帰を支えたファンに感謝

周囲への感謝を伝えたい。その思いが大きかったのは、大失敗から救ってもらえた恩義があるからだ。桃田は、代表活動で一番印象に残っている大会として、世界選手権でもなく、ワールドツアーファイナルズでもなく、2018年のジャパンオープンを挙げた。桃田は、ジュニア年代から活躍。2015年に、年間成績上位者のみが出場するBWFスーパーシリーズ(現ワールドツアー)ファイナルズで女子シングルスの奥原希望とともに日本人初優勝を飾るなど、16年リオデジャネイロ五輪のメダル候補として注目度を高めていた。しかし、16年4月、違法賭博店の利用が発覚して、出場停止処分を受けた。17年に処分が解けた後、下位大会から世界ランクを上げ、ジャパンオープンに再び出場したのが18年だった。

「正直、応援されないんじゃないかなとか、ネガティブな気持ちもすごくあったけど、 いざコートに立つと、たくさんの人に応援してもらうことができ、いつも以上の力を出すことができたことをすごく覚えているし、日本で大きな国際大会で結果を出すことが、僕なりの恩返しの仕方だと思っていたので、それを形にできたのがすごく嬉しかった」

一番の思い出としたのは、復活を後押ししたファンに感謝を伝えられた瞬間だった。

■最後の国際大会へ「どん欲にコートを動き回りたい」

日本代表での最後の舞台は、トマス杯。「最近は、自分の結果と応援が合わないくらい、会場に行くと、たくさんの人に応援していただけて嬉しい限り。本当に自分の集大成なので、どん欲にコートを動き回りたい」と話した。代表活動引退後は、国内で活動を続ける方針。「バドミントンの楽しさを感じてもらえるようなイベントだったり、自分からどんどん発信していきたい」と地域貢献活動にも積極的に参加したい意向を示し、プライベートでは自動車の運転免許を取りたいとも話した。約1時間の記者会見で、桃田は終始、笑顔で話した。後悔しないかどうか、ずっと悩みながら戦い続け、やり切れた思いになれたのだろう。また、日本代表での活動を終えても、自分はバドミントン界に生きる人間に変わりはないという思いも感じられた。大失敗も大成功も経験し、頑張り続けた日本代表での10年。はにかんだ笑顔に、その充実感が表れていた。

文:平野 貴也
平野貴也

平野 貴也

1979年生まれ。東京都出身。
スポーツ総合サイト「スポーツナビ」の編集・記者を経て、2009年に独立。サッカーをメーンに各競技を取材している。取材現場でよく雨が降ることは内緒。

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