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ラグビー コラム 2024年4月24日

田中史朗、日本ラグビーのパイオニアが引退。将来の目標は日本代表ヘッドコーチ

ラグビーレポート by 斉藤 健仁
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田中史朗の会見に駆けつけた松島幸太朗(左)と松田力也(右)

4月24日(水)、ラグビーワールドカップに3回出場した、NECグリーンロケッツ東葛のSH(スクラムハーフ)田中史朗(39歳)が東京都内で会見を開き、今季限りの引退を発表した。

冒頭、田中選手は目を赤くしながら挨拶した。「今シーズンの終了を持ちまして、現役を引退することを決めましたので、報告させていただきます。17年間という長い現役生活でしたが、最高に幸せな時間でした。本当にありがとうございます」。

「この小さな身体でここまでプレーできたこと、日本代表としてワールドカップに出て、新しい日本の歴史を築けたことは私の誇りです。たくさんのチームメイト、チーム関係者、メディアの方々、そしてファンのみなさま、何より家族のサポートがあって、ここまで続けてこられました。本当に感謝しています。本当にありがとうございます」と挨拶した。

ワールドカップに3度出場した田中史朗

今後については、「NECグリーンロケッツ東葛アカデミーのコーチとして、普及活動を続けていく予定です。幸運なことにエディ・ジョーンズ(日本代表HC/ヘッドコーチ)、ジェイミー・ジョセフ(元日本代表HC)、トニー・ブラウンという素晴らしいコーチが周りにいるので、彼らからコーチングを学び、将来的には日本代表のHCをやってみたいと考えています」。

「NECグリーンロケッツ東葛は今季、公式戦がまだ4試合残っているので、引き続き応援していただけるとうれしく思います。これからもNECグリーンロケッツ東葛、そして日本ラグビーをよろしくお願いします」。

引退は2ヶ月ほど前に決断したという。その理由を聞かれて田中は、「(2019年ワールドカップの)日本代表が終わってから、何年もプレーさせていただいていましたが、本当に身体がきついというのがまず1つ。そして、下からもすごくいいプレイヤーが出てきているのも、本当に悲しくもあり、うれしくもあった現状で、やはり限界というものを感じて、こういう決断に至りました」と説明した。

日本人で初めてスーパーラグビーでプレーした田中史朗

田中は2013年に、日本人で初めてスーパーラグビーの選手となり、2015年にはハイランダーズの一員として優勝も経験した。「自分が使ってきた時間が、日本のラグビーを変えていけるという思いを持ってプレーしていた。子どもたちも世界を見る機会が増えたと思いますし、日本のラグビーに対する気持ちを変えられたのではないか」。

そして、日本代表としてもジョン・カーワンHC時代の2008年に初キャップを得て、2011年、2015年、2019年と3度ワールドカップに出場し、75キャップを重ねた。

思い出に残っている試合を聞くと、田中選手は「いっぱいあるんですけども…、自分は出ていなかったのですが、ハイランダーズが優勝した瞬間は、今でもずっと覚えています。日本代表では、やっぱり、南アフリカに勝った試合(2015年ワールドカップ)で、日本の皆さんに感動を届けられたと思うので、あの試合が一番になります」と振り返った。

来季から、NECグリーンロケッツ東葛のアカデミーコーチに就くが、将来は「日本代表のHC」を目指す。その理由を尋ねられると、「選手として日本代表で、試合に勝つことの喜び、そしてファンの皆様、日本の皆様が喜んでいただける喜びというのを感じたので、それをもう一度、味わいたいがプレーヤーとして、ずっと継続することはできない」。

「だから次はコーチになって、そういう思いを選手に味わっていただきたい。そしてファンの皆様、日本の皆様に、そういう感動を届けられるような、チームを作りたい。特に日本のラグビーでは厳しさがないと、世界には勝てないということを体感したので、本当に厳しさがあるHCというのは絶対必要だと思います」。

「その中でも、やっぱり人間として選手と一緒に戦っていけるように、家族のような何でも話せるような間柄になっていければと思っています。本当にきれい事だけではなれないと思うので、これからもいろいろなコーチングを学びながら、周りの人とのつながりを大事にしながら、将来的にやっていければ」と先を見据えた。

左から松島幸太朗、田中史朗、松田力也

そして、会見の終盤にはサプライズとして、日本代表で仲の良かったFB(フルバック)松島幸太朗東京サントリーサンゴリアス)、そして伏見工業の後輩で、埼玉パナソニックワルドナイツ時代は一緒にプレーしたSO(スタンドオフ)松田力也(ワイルドナイツ)も登壇した。

田中は、「来てくれてうれしく思います。さっきは頑張って泣かんかったのに(泣)。若い頃から日本ラグビーを引っ張ってくれた2人で、今のパフォーマンスを見ても、世界のトップクラスのプレーヤーなので安心しています。これからリーダーシップを持って日本ラグビーを引っ張っていってくれたらうれしい。いや、本当にここで最後会えたのが本当にうれしいですし。ほんまにありがとう!」涙ぐんだ。

目頭を押さえる田中史朗

サントリーのウィスキーを持って登場した松島選手は、「本当にお疲れ様という一言です。自分がジャパンに入った時から、ずっとお世話になってきました。これから、ラグビーの普及もやっていくと思いますが、何をするにしても、ラグビーに関しては一生懸命な人なので、僕も手伝えることがあれば、どんどん参加していきたい」と話した。

田中選手に初めて会ったのは中学生だったという同郷の松田選手は、「本当にお疲れ様です。中学、高校から見ている選手で、僕の憧れでもありました。同じチームでラグビーをしていたし、プライベートでもすごく可愛がってもらったので、この場に来られてうれしく思います」。

ラグビー以外のところも、たくさん学ぶこともありましたし、この涙をこの近くで最後に見られてよかったと思います。いい思い出が一杯ありますし、プレーヤーとしてもすごく感謝しているし、いろいろなことをラグビー以外でも教えてもらった先輩で、本当に率直に寂しいという気持ちがあります」。

そして、「フミさんが残してくれたものを日本代表としてもそうですし、ラグビー界が繋いでいかないといけないと思います。伏見の後輩として、泣く役はもらおうかなと思います(笑)」と話した。

「ラグビーは僕の人生ですね。人生そのものです。本当にラグビーがなければ生きていけないですし、ラグビーのおかげで、ここまで成長させてもらった」という田中選手。

最後に「引退するのは誰もが経験することなので、しっかりと切り替えて、ラグビーが終わってからの人生の方が長いと思いますので、引退してから、たくさんのいろいろな方々にラグビーの素晴らしさを伝えながら、これからもラグビーを愛して生きていきたい」という言葉で締めた。

グリーンロケッツの試合は入替戦を入れて残り4試合。日本ラグビーのパイオニアだった田中選手はチームメイトを鼓舞しながら、最後までピッチを駆け回る。

文/写真:斉藤健二

斉藤健仁

斉藤 健仁

スポーツライター。1975年生まれ、千葉県柏市育ち。ラグビーと欧州サッカーを中心に取材・執筆。エディー・ジャパン全試合を現地で取材!ラグビー専門WEBマガジン「Rugby Japan 365」「高校生スポーツ」の記者も務める。学生時代に水泳、サッカー、テニス、ラグビー、スカッシュを経験。「エディー・ジョーンズ 4年間の軌跡」(ベースボール・マガジン社)、「ラグビー日本代表1301日間の回顧録」(カンゼン)など著書多数。≫Twitterアカウント

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