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ラグビー コラム 2021年6月30日

ダブリン懐旧旅行 ~ジャパンーアイルランド戦の前後に~

be rugby ~ラグビーであれ~ by 藤島 大
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ダブリン。飛んで行きたい。でも、地球規模の疫病のせいもあって、そうもいかない。

7月3日。現地時間の13時開始。日本時間なら21時。ジャパンが敵地ダブリンでアイルランドとぶつかる。J SPORTSの放送はキックオフの30分前に始まる。テレビの画面にテストマッチを待つ時間はいいものだ。

アイルランドのスコッドには12名のノンキャップ組が名を連ねた。代表定着を渇望する若手の存在によってキャンプは活気づいた。ダブリンのニュースはそう伝えた。

実力者、75キャップのフランカー、ピーター・オマホニーがジャパンを語っている。

「この4、5年、彼ら(ジャパン)はクオリティーを示してきました。もはや、どこと当たっても渡り合えるチームです。先週のライオンズ戦を見ても攻撃力は格別。ディフェンスのラインスピードと同様に相手に多大なプレッシャーを与えます。世界の強豪と互角に戦えることは証明されている」(アイリッシュ・タイムズ紙)

同紙にはこうもある。

ラグビーワールドカップ2019でアイルランドに初めて勝利した日本代表

「ジャパンは(2年前のワールドカップで)史上初めてアイルランドを破り『ガラスの天井』を突き抜けた。経験豊富なアイルランドの選手はそうした結果から得られる自信をよくわかっているだろう」

後段の意味はこうだ。1905年11月25日、アイルランドはオールブラックスとの第1回のテストマッチをダブリンで戦った。0-15の黒星。では初めて勝利は? 2016年11月5日である。40-29。そこまで28戦未勝利(ひとつだけ引き分けがある)だった。中立地である米国のシカゴでの白星。『ガラスの天井』をとうとう破った。すると2年後、ダブリンでまた勝った(16-9)。

ジャパンもまた自信を抱いて前へ出てくる。そう分析している。アイルランドは7人がブリテイッシュ&アイリッシュ・ライオンズに加わった。負傷や休養の主力級もいる。観衆は「3000」に制限された。それでも旧ランズダウン・ロード(初めてのオールブラックス戦もそこで行なわれた)、現在のアビバ・スタジアムでの激突は「初めて勝った国」と「初めて負けた国」の再戦なのだから、どうしたって厳しいテストマッチとなるはずだ。

あらためて今回のダブリンはあまりに遠し。以下は懐旧の旅である。

1997年。早稲田大学ラグビー部のコーチとしてこの地に遠征した。午前中のひととき、ひとりでトリニティー・カレッジ(ダブリン大学)の石畳の中庭まで散歩した。ごろんと寝転がる。旅の者が身を横たえてもだれも気にしない。モジャモジャ頭や丸眼鏡の学生たちはそれぞれが瞑想にふけったり読書に夢中になったりしていた。「おお変人だらけじゃないか」。うれしくなった。

そのダブリン大学との試合後、メリオン通りのホテル「ダヴェンポート」で両校の宴が催された。その名も『ギネス・ジャズ・バンド』の演奏に乗せて、名門であるところのダブリン大学フットボール・クラブ(ここではフットボール=ラグビー)のプレジデントが、エルビス・プレスリーの『ブルー・スウェード・シューズ』を本格的に熱唱した。えらい人が歌いまくる。やはり変わっている。

プレジデントのジョン・テリーは言った。

「わたしたちは世界最古のラグビーのクラブだ」

こちらの知識では、1843年創部のイングランドのガイズ・ホスピタルが「最古」のはず。ダブリン大学ラグビー部は1854年の誕生なので2番目ではないか。

熱唱の紳士は諭すように解説した。

「正確には戦争による活動停止期間のないクラブとしては世界最古」

そういえばアイルランドは第2次世界大戦の中立国であった。

ダブリン大学のラグビーはあまたの人材を輩出した。たとえばドラキュラを世に広めた男もひとりだ。あの吸血鬼である。1897年5月に『Dracula』は刊行される。作者のブラム・ストーカーは赤毛で筋肉質の万能フォワードであった。1868年のシーズンは27戦全勝。ドラキュラ作家はまぎれもなく主力だった。

1991年。第2回ワールドカップ取材で最初のダブリン訪問はかなった。スポーツ新聞の記事をホテルのファクシミリで送り終えたら、あとは楽しい時間が待っていた。

トニー・オライリーの評伝とダブリンのパブ『オールド・スタンド』のマッチ

エクスチェカァ通りのパブ、『オールド・スタンド』こそは「私のアイルランド」の国土の大半を占めた。連夜、通ったのである。当時の「5か国対抗の紋章」が目立たぬように窓や店のマッチに装飾されていた。長身のバーマンの頭上に木箱があってテレビがしまわれている。ラグビー中継が始まると扉があく。試合終了と同時に、まったく同時に、バーマンは表情を動かすことなく扉を閉じる。そのルーティンがたまらない。

メリオン通りを折れた小道の音楽パブ、『オドナヒューズ』ではこんな出来事に遭遇した。1階のメイン酒場でなく脇の階段を昇った小さなスペースで、浦和高校ラグビー部出身、東スポこと東京スポーツ新聞の記者と黒ビールのギネスをストンストン胃袋へ落下させていると、同じ色のブレザーをまとった精悍な男どもが入ってきた。5人くらいだったか。なんとオールブラックスの面々だ。

コーチで熊のようなアレックス・ワイリーが先導、ほぼ無言で確か2杯ずつ飲んで、すぐに帰った。準決勝のためにダブリン到着、ホテルに荷を放ってそのままやってきた。そんな風情である。狭い空間に日本のふたりの記者とニュージーランドで最高のラグビー選手たちとバーマンしかいなかった。幻のような時間だった。

J SPORTS オンデマンド番組情報

8年後のワールドカップで再訪すると階段の手前が封鎖されていた。店にたずねたら「あそこはごくまれにしか開けない」と首をひねった。やはり夢なのか。

旅は帰ってからも旅である。どんどんアイルランドのラグビーに興味がわいた。書籍や新聞雑誌で逸話の数々を楽しんだ。このコラムのために資料を読み返すと、ある名選手の好きな言葉と再会できた。

「熟練の怠慢」

ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズとアイルランドの往年の名ウイング 、トニー・オライリーがそう述べている。

「ゲーム中、私は長いことじっとしている。熟練の怠慢とでもいうのか。ここで動けばスコアできるという瞬間までエネルギーはためておく。手の内を見せず、相手が対応できなくなる機会に大勝負をかける」(74年、ピープル誌=一部略)

これ、実はビジネスの奥義を語っている。前段は「(仕事でも)ラグビーと同じような駆け引きを用いるんだ」。現在85歳のオライリーは、43歳で巨大食品メーカー「ハインツ」の最高経営責任者となり、のちに会長も務めた。同社の英国法人社長であった33歳のときにイングランドとのテストマッチに出場している。ロンドンで負傷者が出て急に呼ばれ、役員会議を抜け出して運転手付きの大型車で練習に向かった。

現在のラグビーのウイングに「熟練の怠慢」はなかなか許されない。左右前後上下に大忙しだ。しかし「手の内を見せず」防御の対応不能の瞬間に「大勝負」を仕掛けるのがスコアの不動の秘訣だろう。土曜のテストマッチ、若き日に陸上のスパイクなしに100mを10秒7で駆け、怪物的な資産家でもあったアイルランド屈指の名士も、きっと公共放送RTEの中継を追うはずだ。

文:藤島 大

藤島大

藤島 大

1961年生まれ。J SPORTSラグビー解説者。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。 スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。 著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)近著は『事実を集めて「嘘」を書く』(エクスナレッジ)など。『 ラグビーマガジン 』『just RUGBY 』などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球にみる夢』放送中。

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