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ラグビー コラム 2019年12月25日

花園に冬がきた ~高校ラグビー、幻のような記憶~

be rugby ~ラグビーであれ~ by 藤島 大
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東大阪市花園ラグビー場

次の一節が好きだ。「ラグビーは冬の季語である」。なんべんでも書きたくなる。

ラガー等のそのかちうたのみじかけれ

横山白虹のよく知られた句だ。1934年2月18日、生駒の冷たい風の吹きつけるグラウンドで、全日本と呼ばれたジャパンが来征の豪州学生代表を14対9で破った。勝者の鬨(とき)の声はほんの一瞬だった。そんな光景を切り取った。当時は33歳、医師でもあった俳人はそこにいたのだろう。すなわち大阪・花園ラグビー場の観客席のどこかに。

「花園」の誕生は「スポーツの宮様」と深い関わりがあった。1928年のやはり2月、秩父宮殿下は、橿原神宮ご参拝のために近畿日本鉄道の前身である大阪電気軌道に乗車、沿線の土地に目をやりながら一言。「ここらにラグビー場をつくったらどうか」。同年の12月、同社の役員会にて決議。イングランドのトゥイッケナム競技場の写真などを参考に建設は進み、29年の11月に鉄傘のスタジアムは完成する。

90年後のワールドカップ日本大会、その花園が会場に選ばれて、なんというのか、ただの取材者なのに自分まで義理を果たしたような気になった。こんなに長く高校ラグビーの聖地としての「務め」を貫いてくれたのだ。当然だよなぁと。

1963年。前の東京五輪の前の年。全国高校大会は第42回にして初めて花園を舞台とした。あれから56年、歳月を経れば、すべての参加者に等しく誇りをもたらす時間はまた始まる。師走27日開幕、青春が冬を走り、新年7日、短い「かちうた」と、もう少し長く続く「くやし涙」のフィニッシュを迎える。

さて『ラグビーマガジン』誌の年末のお楽しみ、付録の「全国高校ガイド」をさっき入手できた。ページを繰って、いけない、さっそく鼻の奥がツンとしてくる。北北海道代表、旭川龍谷高校のスコッド紹介、恒例の「目標とする選手」の欄にこうあった。

「林涼生(ОB)」。以下、「山田裕士(ОB)」「種子田規人(ОB)」「高橋泰晟(ОB)」も続いた。忘れがたきワールドカップのイヤーのアンケート、それでも、まっさきに身近な先輩の名を記す。ジャパンの福岡堅樹や田村優やオールブラックスのアーディー・サヴェアの前後に、北の地の無名が陣取って、なんとも幸福な気分に浸れた。

狭い世界とは広くて深い記憶の場でもある。小さな世界を大きく感じるのは少年少女の特権だ。ひとつ上のあの人のスクラムの押しは、きっと稲垣啓太や具智元よりも強い。それでいい。いま、みんなどうしているのか、「湯口龍雅(ОB)」も「大平雄登(ОB)」も後輩の目標となりえた。悪くない高校時代だ。そして、いいクラブである。

ガイドのおしまいのほうには花園(以下、全国高校大会の意味)の過去の参加校が掲載されている。記憶を呼ぶために指でなぞってみる。あっ。声は出ないが出そうになった。思い出したのだ。

1985年度。奈良県の出場校は天理だが天理高校ではなかった。「天理教校附属高校」。現在の天理教校学園高校である。日本の高校ラグビーを長く牽引してきた天理高校は、この年度、県の予選を勝ち抜けなかった。それは「事件」だった。1995年度の県立御所工業(現・御所実業)高校の花園初出場まで長く県内に敵なしの古豪にして強豪が、このシーズンのみ、体格も陣容もスモールな系列の学校に負けた。いや本当はそうではない。引き分けた。6-6。抽選に泣いた。

当時の『ラグビーマガジン』を調べた。「天理ぼう然!」。そんなタイトルが飛び込んでくる。全国大会優勝候補の予選でのつまずきは「周囲にも大きな衝撃を与えた」とある。「『いつか勝てる』という余裕がしだいに焦りとなり」なんて記述も見つかった。

あの天理教校附属高校の試合ぶりを確かに見た。そして驚いた。そのころは取材はしていないので観客か視聴者としてだ。軽量FWが「きびきび」としか表現できない軽快なテンポで集散を繰り返す。BKのラインはきれいな幾何学模様を描いてボールを「てきぱき」と動かす。前へ出るタックルまたタックル。いまでも、うまく攻守を形容できない。展開ラグビーの極致、どこにもないスタイルだったからだ。

覚えているのが紫のジャージィ、あるいは青系統のそれだったことだ。モノクロのグラビア写真を見返すと花園では白をまとっている。予選決勝では天理高校が同色だからか濃色を着た。ということは、おそらく出場が決まり、放送局が番組で特集、そこでの映像を見たのだろう。だとすれば数分間の消えない記憶である。

天理教校附属高校は初出場で「FWは平均体重73キロ」の「素人集団」なのに第6シードとなった。前年度は第1シードであった天理高校と引き分けて出てきたからだ。2回戦で作新学院に17-3の勝利。3回戦の日川高校戦は0-20。後者については「平均体重で10キロ近く」劣ると紹介されている。

幻のごとき独自のチームを率いたのは、蒲原忠正その人である。旧姓は藤本、大西鐵之祐監督のジャパンの背番号10を担い、71年のイングランドとの3-6の伝説のゲームでも存分に力を発揮した。色紙には「肩砕けてもタックル」。猛烈な一撃でおそれられた。教団の人事もあって一線の指導歴は短い。あれが最後の花園である。もし、蒲原監督がより布陣の厚いチームをじっくり仕込んだら、どういう攻守を創造したのか。新しい日本のスタイルが誕生したのではないか。なんて、つい想像してしまう。

この次に「見たことのないラグビー」を見るのは、89年度である。花園の芝に「小さなウェールズ」が出現した。茨城の茗渓学園高校は、崩れた状況、半分失敗のアタックからむしろチャンスをつかんだ。70年代、黄金期のウェールズの即興性と芸術性はあたかも突然変異のごとく再現された。

さあ2019年度の花園。少数の「超」強豪の突出に一矢を報いる発想と信念と情熱、極端が普遍に昇華する凄み、あえて述べれば「蒲原イズム」の萌芽はあるのか。あってほしい。あるべきだ。

文:藤島 大

藤島大

藤島 大

1961年生まれ。J SPORTSラグビー解説者。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。 スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。第1回からラグビーのW杯をすべて取材。 著書に『熱狂のアルカディア』(文藝春秋)、『人類のためだ。』(鉄筆)、『知と熱』『序列を超えて。』『ラグビーって、いいもんだね。』(鉄筆文庫)近著は『事実を集めて「嘘」を書く』(エクスナレッジ)など。『 ラグビーマガジン 』『just RUGBY 』などに連載。ラジオNIKKEIで毎月第一月曜に『藤島大の楕円球にみる夢』放送中。

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