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サッカー フットサル コラム 2022年9月14日

日本のサッカー界における「大いなる遺産」。2002年ワールドカップを振り返る

後藤健生コラム by 後藤 健生
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FIFAワールドカップ激戦の記録

FIFAワールドカップ激戦の記憶

今から24年前の1998年のフランス大会で、日本代表は初めてのワールドカップ出場を果たした。

それ以来の、ワールドカップ本大会における日本代表の足跡をたどるJ SPORTSの企画では、9月17日から地元開催(韓国との共同開催)となった2002年大会での4試合を振り返る。

その初戦は埼玉スタジアム2002で開催されたベルギー戦。点の取り合いとなり、最後は稲本潤一が同点ゴールを決めて2対2の引き分けに終わったのだが、この引き分けは日本代表にとってワールドカップ本大会で初めての勝点獲得となった。

ちなみに、日本とベルギーの対戦はなぜかこうした激しい攻め合いになる事が多い。2点を先取しながら3点を奪われて逆転負けを喫した4年前のロシア・ワールドカップのラウンド16の情景はまだ記憶に新しいが、そんな後の歴史を考えながら2002年のベルギー戦を見るのも楽しそうだ。

1998年フランス・ワールドカップでは、日本代表は3戦全敗に終わっていた。

フランス大会を目指した日本代表にとっては「アジア予選突破」が至上命題だった。なぜなら、すでに2002年大会は日本開催(日韓共催)が決まっていたのだが、ワールドカップ出場経験のない国が開催国となった例は(第1回、第2回大会を除いて)ひとつもなかったからである。

そして、日本代表はアジア最終予選で大苦戦したものの、最後は第3代表決定戦でイランをくだして見事にこの至上命題を達成する。

2002年大会を目指す日本代表にも、一つの大きな目標があった。

というのは、それまでに開催された16回のワールドカップで開催国がグループリーグで敗退したという例が一つもなかったのだ。そこで、開催国として予選が免除された2002年大会では「決勝トーナメント進出」が日本代表にとっての最大の目標となったのだ。

この重大な任務を託されたのはフィリップ・トルシエ監督。アフリカ諸国で実績を積んだフランス人指導者だった。

トルシエ監督はそのエキセントリックな性格から再三にわたって周囲と軋轢を起こし、「解任騒動」も何度かあった。だが、2002年大会を目指すフル代表チームだけでなく、オリンピック代表やU-20代表監督も兼任したトルシエ監督は、1999年のワールドユース選手権(現、U-20ワールドカップ)ナイジェリア大会で準優勝。さらにシドニー五輪ではベスト8。そして2000年のアジアカップでは圧倒的な強さで優勝と、結果を出し続けることで批判を封じ込めた。

トルシエ監督はこうしたいくつものカテゴリーを率いながら、日本の若い選手たちを鍛え上げた。最初に日本にやって来たときから、日本の若手のレベルの高さを見て、彼らを中心にしてチームを作ることを決心したのだという。自己主張が苦手な日本人選手に様々な方法で刺激を与えることによって、“闘える”選手として成長を促すことに成功。若手中心のチームでワールドカップで目標を達成するとともに、トルシエ監督の下で育った選手たちはその後も長く日本サッカー界を牽引する存在となる。

トルシエ監督は自らの代名詞とも言える「フラットスリー」(3−5−2)の戦術に選手たちを当てはめていった。3人の最終ラインはボールの動きに合わせて上下動することによって相手をコントロールし、フィジカルコンタクトを避けて守るというのがトルシエ監督の方針だった。

だが、相手チームも当然そうした戦術を分析してくる。実際、初戦のベルギー戦では鈴木隆行のゴールで日本が先制したものの、一斉にラインを上げる日本の最終ラインの逆を取られて一度はベルギーに逆転を許してしまう。そして、ベルギー戦の後、日本のDFはキャプテンの森岡隆三を中心に話し合いを行い、監督の指示にかかわらずラインの上げ下げをより慎重にすることを決める。

トルシエ監督が育てた選手たちは、それだけ自己主張ができるようになっていたのだ。

第2戦のロシア戦を前に日本代表はアクシデントに見舞われる。ベルギー戦で足を痛めて途中交代した森岡が復帰できなくなってしまったのだ。しかし、急遽出場した宮本恒靖がしっかりDFを統率し、ロシア戦とチュニジア戦は無失点で切り抜ける。そして、鼻骨骨折の後だったので黒いフェースガードを着けた宮本は「バットマン」として注目を集めることになった。

こうして臨んだ2戦目のロシア戦では、ロシア代表が横浜の蒸し暑さに苦しんだこともあって、再び稲本が決めた1点を守り切った日本がワールドカップでの初勝利を記録。さらに、最終チュニジア戦でも森島寛晃と中田英寿の得点で2対0で勝利して2連勝。日本はグループリーグ首位でラウンド16進出を決めた。

ラウンド16ではワールドカップの常連国ではないトルコが対戦相手と決まったことで、日本にも勝利の可能性があるかと思われた。だが、日本代表にはグループリーグでの疲れがたまっており、トルシエ監督がメンバーを入れ替えたことで物議を醸すこととなった。そして、前半12分にCKから失点を喫した日本は反撃を封じ込められて0対1で敗退。トルコ戦での不甲斐ない負け方と共同開催国の韓国がベスト4まで勝ち上がった事実のおかげで、日本人サポーターにとってはややフラストレーションがたまる大会となったが、それでも二度目のワールドカップ出場で決勝トーナメント進出を果たしたことは大きな成果と言っていい。

その後、日本代表は2010年の南アフリカ大会、2018年のロシア大会でもグループリーグ突破を果たすことになるが、その基礎を作ったのが2002年大会だった。

2002年大会には世界各国からサポーターが押し寄せた。

1993年にJリーグが開幕して以来、日本でもJリーグの試合ではサポーターと呼ばれる人たちがスタンドを埋めるようになっており、また、日本代表の試合ではアウェーゲームでも多くの日本人サポーターが海を渡ることが当たり前のようになっていた。

こうして、日本にもサポーター文化が根付き始めていたこともあって、来日した各国のサポーターはさまざまな形で日本人観客とも交流した。たとえば、彼らの代表チームと同じようにひたむきな応援を繰り広げたアイルランドのサポーターは日本人観客とも交流を行うなど、各国のサポーターは日本でも温かく迎えられ、2002年大会を通じて日本におけるサッカー文化は一段と深まった。

2002年ワールドカップ。それは、さまざまな意味で日本のサッカー界にとっての「大いなる遺産」と言っていいだろう。

文:後藤健生

後藤 健生

後藤 健生

1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。64年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、「テレビでCLを見るよりも、大学リーグ生観戦」をモットーに観戦試合数は3700を超えた(もちろん、CL生観戦が第一希望だが!)。74年西ドイツ大会以来、ワールドカップはすべて現地観戦。2007年より関西大学客員教授

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