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サッカー フットサル コラム 2022年8月29日

まだ若かった日本サッカー~日本サッカーの原点 FRANCE98~

後藤健生コラム by 後藤 健生
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J SPORTSで9月から11月にかけて、1998年のフランス大会から2018年のロシア大会までのFIFAワールドカップ日本代表戦全21試合が放送されるという。
9月は1998年フランス大会というので、名良橋晃さん(現、解説者)の話を聞いた。言わずと知れた、フランスW杯当時の日本の不動の右サイドバックである。

僕は「不動の」と思っていたが、名良橋さんご自身の認識としては市川大祐など若手の台頭にかなりの脅威も感じていたのだと言う。そして、初めてのワールドカップでの自身のプレーについては「サイドの選手としてもっと上がって攻撃参加したかった」という悔いがあるという。当時の日本代表では左サイドでは名波浩のパスを使ってサイドバックの相馬直樹が比較的高い位置を取れていたが、右サイドはそれほど高くまで上がれなかったのだという。

おそらく、1998年当時のサッカーを現在と比べて最も大きく違っていることの一つがサイドバックの役割ではないだろうか。
もちろん、世界のサッカー史を振り返ってみると、第2次大戦後の1950年代にはすでにサイドバックの攻撃参加は有力な武器となっていた。1950年代から60年代にかけてイタリアのジャチント・ファケッティやブラジルのジャウマ・サントスといったサイドバックの攻撃参加は有名だった。また、ブラジルはその後もロベルト・カルロスやカフー、ダニ・アウベスなど伝統的に攻撃的サイドバックを多数輩出している。鹿島アントラーズで名良橋さんのチームメートでもあったジョルジーニョはブラジル代表でサイドバックとしても、インサイドMFとしてもプレーした。

だが、その頃まではサイドバックの攻撃参加というのは選手個人の能力に依存するところが大きかった。サイドを駆け上がるスピードや上下動を繰り返す持久力。そして、クロスを上げるキックの技術などの能力が高いサイドバックだけが攻撃参加を許されていた。
そして、サイドバックの攻撃参加といえば、もっぱらタッチライン沿いに上がっていく「オーバーラップ」のことと理解されていた。オーバーラップしてクロスを上げること。それが、攻撃的サイドバックの役割だった。

ところが、ここ10年ほどの間にサイドバックの攻撃参加は戦術的に急激に発展してきた。モダン・スタイルのサイドバックはオーバーラップだけでなく、中のレーンをするすると上がっていくインナーラップも使い、インサイドハーフやトップ下のポジションでプレーすることもある。

バイエルン・ミュンヘンでペップ・グアルディオラ監督がサイドバックであるフィリップ・ラームをそうした形で使うようになったころには、大変に難しい戦術のように思われた。
だが、2018年にアンジェ・ポステコグルー監督が横浜F・マリノスの監督に就任して、サイドバックをインサイドMFとしてプレーさせる超攻撃的サッカーを導入すると、日本でもサイドバックのインナーラップはたちまち普及。今では、Jリーグクラブだけでなく、各年代のチームを含めてサイドバックのインナーラップはもはや珍しい光景ではなくなっている。

日本代表でも、サイドバックは大きな武器となっている。今年3月のアウェーのオーストラリア戦では、右サイドバックの山根視来が相手のボックス内深くまで進入して入れたクロスを三苫薫が決めたのが決勝点となって日本のカタールW杯出場が決まったし、先日のE-1選手権(東アジア選手権)でも、最終戦で優勝をかけて対戦した韓国代表は日本の右サイドバック小池龍太の攻撃参加にまったく対応できていなかった。

名良橋さんは、自身がプレーしたフランスW杯の試合の映像をまったく見ていないという。僕も大会直後には映像チェックしたはずだが、もう長いことあの時の試合を見ていないのでいろいろな意味で楽しみにしているのだが、現代のサッカーとの比較ということであれば、とくにサイドバックの動きに注意してみてみたい。クロアチア代表には、当時世界最高峰の左サイドと言われたロベルト・ヤルニがいた。名良橋さんもピッチ上で対面したヤルニの印象が強いようだが、僕もヤルニのプレーを現在のサイドの選手と比較しながら見てみたいと思っている。

フランスW杯は、僕にとっても思い出深い大会だ。
僕は、1974年の西ドイツ大会からワールドカップの現地観戦を始めたのだが、1980年代くらいまではワールドカップというのは日本とは縁のない「雲の上の存在」としか思えない大会だった。そして、僕にとって7回目の大会で初めて日本代表が戦う姿を目にしたのだった。そこに、ブルーのユニフォームを身にまとった日本代表の選手たちが立っているだけでも、夢のような出来事だったのだ。

フランス大会で日本は3連敗に終わってしまった。初戦に2度の優勝経験があるアルゼンチンと対戦して、ちょっとしたミスをガブリエル・バティストゥータに決められて敗れてしまう。そして、酷暑の中で行われたクロアチア戦では中山雅史の決定機があったが決められず、再び0対1で連敗。この時点で、日本のグループリーグ敗退が決まってしまった。
そして、最終戦は日本と同じくワールドカップ初出場のジャマイカと対戦したが、2点を先行されてしまい、最後に中山が日本にとってのワールドカップ初ゴールを決めて一矢報いるのが限界だった。当時の日本チームは3試合を戦いきるのがやっとだった。

「3連敗」。今だったら日本チームは非難を浴びることだろう。だが、当時の日本のサッカーファンはワールドカップ本大会で戦えたことで満足した。
20世紀最後のワールドカップとなったフランス大会当時、日本にとって本当の勝負は「アジア予選突破」だったのだ。1997年のアジア最終予選はジョホールバルでのイランとの第3代表決定戦までもつれ込み、おそらく日本のサッカー史上最も厳しい戦いだった。

フランス大会後に日本代表を率いることになったフィリップ・トルシエ監督の言葉を借りれば、フランスでの本大会は「ボーナスのようなもの」だったのかもしれない。
トルシエ監督が作った若いチームで臨んだ日本代表にとってはグループリーグが勝負の場だった(開催国として予選は免除)。そして、見事に2勝1分で決勝トーナメント進出を果たしたのだが、トルシエ監督にとってトルコとのラウンド16は「ボーナス」だった。

日本は、2022年のカタール大会で7大会連続出場となった。そして、その間に3度ラウンド16に進出したが、3度ともそのステージで敗退している。
つまり、現在の日本サッカーにとって「ラウンド16を突破すること」が目標となっているのだ。そのためには、ワールドカップ本大会で4試合、5試合を戦い抜かなければならないのだ。

日本のサッカーは、大会ごとに一つひとつ経験を積み重ねながらここまでやってきた。だから、24年前にその第一歩を踏み出したフランス大会を振り返ることには大きな意義があると言える。
24年前の日本代表。1990年代には世界の強豪国と対戦する機会も増えてきていた。だが、親善試合とワールドカップでの対戦では、相手の気持ちの強さもまったく違ったのだ。

また、中田英寿がイタリア・セリエAのペルージャに移籍することが決まったのは、このフランス大会の直後だった。つまり、当時の代表選手の誰にとっても欧州や南米の選手との真剣勝負は初めての経験だったのである。

今では日本代表選手のほとんどが海外クラブに所属して、日常的に各国の代表クラスとのプレーを経験しているが、そういう意味でもフランス大会は現在の日本サッカーの原点ともいえる大会なのである。

文:後藤健生

後藤 健生

後藤 健生

1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。64年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、「テレビでCLを見るよりも、大学リーグ生観戦」をモットーに観戦試合数は3700を超えた(もちろん、CL生観戦が第一希望だが!)。74年西ドイツ大会以来、ワールドカップはすべて現地観戦。2007年より関西大学客員教授

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