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サッカー フットサル コラム 2021年10月26日

「失われた30年」。だが、日本のスポーツ界はこの30年で大いに発展した

後藤健生コラム by 後藤 健生
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衆議院総選挙の投開票日を前に目、マスコミの報道で日本という国の様々な問題点が指摘される機会が多くなっている。

「失った30年」の問題である。

僕は日本の高度成長やバブルの時代を知っている。

前回の東京オリンピックが開催された1964年代から、日本の経済は急成長を続けた。そして、1980年代には日本のGDP(国民総生産)はアメリカに次いで世界で第2位となり、いずれはアメリカも抜いて世界第一の経済大国になるとも言われていた。

1979年にアメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本を書き、日本でもベストセラーとなったが、その本でヴォーゲルは日本型経営を高く評価しているのだ。

すべてが「今や昔」という話である。

バブルが弾けた1990年代以降、日本の経済は停滞を続け、GDPは中国に抜かれた。今でもGDPでは世界3位の座を守っているものの、労働生産性や給与レベルなどの様々な指標で北欧、西欧諸国や韓国にも抜かれてしまっているようだ(もっとも、中国は人口が日本の10倍以上あるのだから、GDPが日本の倍くらいあっても驚くには足らない。歴史的に見ても、中国は19世紀までずっと世界最大のGDPを誇っていたのだから)。

そんな日本の行き詰まりについての話を聞くのは辛いことだが、しかし、やはり僕たちはこうした状況を招いてしまった原因について真剣に考えなければいけいないのだろう。

江戸時代の初め、江戸幕府は新田開発や水運の整備などを通じて経済成長を実現させた。しかし、その後、浅間山や富士山の噴火などで経済発展が困難になると、幕府は方針を大きく転換して成長より安定を目指した。成長はせずとも安定した日本の社会の中で産業開発は進み、さまざまな江戸の文化が花開いた。

だが、19世紀になると身分制度のせいで能力のある人材が活用できなかったことで社会は窮屈なものとなり、そんな悩みを多くの人達が共有するようになっていった。当時の知識人たちはピョートル大帝がロシアを西欧化させたことまですでに知っていたのだという。

ちょうどそんな時に欧米列強から開国を要求されたことによって明治維新が実現し、身分制度に縛られない新しい社会が実現。その後、100年間、途中で戦争による中断はあったものの、日本は発展をつづけた。

だが、明治以来の社会経済制度は行き詰ってしまった。何らかの制度改革が必要なことは誰もが理解できるが、しかし、何をどのように改革するのか……。それが、何も見えてこないのである。

それはちょうど、圧倒的強さで連覇を飾った絶対王者とも言うべきチームが世代交代に失敗して凋落してしまうスポーツの世界の出来事とダブって見える。負けた時は誰もが何かを変えたいと思える。だが、勝っている時に次の時代を考えて変革に挑むこと。これほど難しいことはない。

さて、この「失われた30年」の間、僕はどんな時代を過ごしてきたのか。思い返すと、実はそれほど悲惨な時代とは思わないのである。

というのは、この30年間(いや、それより以前からだが)僕はスポーツを生業として、スポーツに対して強い関心を持って過ごしてきたからだ。

日本の社会や経済にとっては、たしかに1990年以降は「失われた30年」だった。だが、スポーツ界に限って言えば、1990年代以降の30年間で日本のスポーツは大きく発展した。

たとえば、野茂英雄がアメリカに渡ったのは1995年のことだった。わずか26年前のことである。遠い昔(1960年代)、サンフランシスコ・ジャイアンツで活躍した村上雅則というピッチャーはいたものの、日本人が大リーグに挑戦できるなどとは30年前には誰も真剣に思っていなかった。

野球というスポーツは、もろにパワーとパワーをぶつけ合うスポーツだ。だから、サイズやパワーに劣る日本人プレーヤーでは、いくらテクニックがあったとしても、勝負にならないと誰もが思っていた。

だが、野茂はアメリカで成功した。たしかに、ピッチャーは成功した。しかし、日本人の野手は通用するのか……。

そんな常識を完全に覆したのが2001年に太平洋を渡ったイチロー(鈴木一朗)だった。2004年に記録したシーズン安打数262本など、数々のMLB記録を更新。打撃だけでなく、走塁でも、守備でもアメリカのファンを魅了するパフォーマンスを見せ続けた。

そして、さらに大谷翔平の登場である。

単打を積み重ねたイチローと違って、大谷はパワーヒッターだった。2021年シーズンにはリーグ戦の終盤までホームラン王争いを続けた。そして、信じられないことにピッチャーとしても成功を収めるのだ。

シーズンを通じてピッチャーとバッターのいわゆる“二刀流”を実現。サイズでも、パワーでも、持久力でも、並みいる大リーグの猛者たちをフィジカル面で圧倒しているのだ。

30年前の常識ではありえないことである。

サッカー界もそうだ。30年前、日本にはまだプロリーグは存在しなかった(プロ契約の選手はすでに存在した)。ワールドカップはもちろん、1992年大会から23歳以下の大会となったオリンピックや各年代別の世界選手権で、1968年のメキシコ・オリンピック以降、日本は一度もアジア予選を突破することができなかった。開催国枠で出場するしか、世界大会を経験できなかったのだ。

それが、今ではワールドカップ予選で負けるとは誰もおもっていない。たった1敗しただけで、大騒ぎなのだ。

1970年代に奥寺康彦が西ドイツ(当時)で長く活躍したことがあったし、三浦知良という名の高校生が無謀にもブラジルに渡ってなんとかプロ契約まで漕ぎつけたという例外はあったものの、日本人選手がヨーロッパのトップリーグで活躍する時代が来るとは1990年当時、誰もが思ってもいなかった。

ようやく1990年代後半になって、中田英寿という若者がイタリアに渡って思ってもみない成功を収めたものの、そういう選手は例外だと思われていた。少なくとも、日本代表のレギュラーとして活躍した選手だけがヨーロッパに渡っていくものだと、当時は思われていた。

だが、今では日本人の若手選手が、日本で大した実績も残さないうちに、次々とヨーロッパ各国のリーグで活躍するようになっているのだ。

その他、バスケットボールでも今では複数の日本人選手がNBAでプレーしている。

経済的には間違いなく「失われた30年」だったものの、この30年間、日本のスポーツは(少なくとも、プロ化に成功した競技は)大いに発展を遂げたのである。

何がこの成功をもたらしたのか。まず、第一に高度成長からバブル期までの経済発展の蓄積があったこと。日本経済は、その後低迷してしまったものの、高度成長時代の蓄積があったからこそ、その豊かさをスポーツに投資することができた。

低成長時代に入り、高度成長期のように、スポーツを企業(実業団)が丸抱えでサポートすることは不可能になったが、そこでモデルチェンジが行われた。一つの企業がチームを丸抱えするのではなく、地域密着型のクラブが生まれていったのだ。そのモデルを作ったのがJリーグだった。

選手たちは、学校や企業や国のためではなく、次第に自分のため、自己実現のためにプレーすることになっていった。トレーニングも“根性論”ではなく、より合理的なものに変わっていった。

そういうことができているのだから、やはり日本はまだまだ豊かな国だ。不動産バブルに乗ったディベロッパーたちが巨額投資によってクラブが立ち上げられて、ヨーロッパや南米のビッグネームを買いあさって強化を続けた中国で、その肝心のディベロッパー集団が不動産バブルの崩壊に直面してクラブ経営が難しくなってきている。そんな中国のプロサッカーリーグと、間違いなく地域社会に(もちろん、ヨーロッパと比べれば、まだまだ不十分ではあるが)組み入れられている日本のスポーツクラブとを比べてみれば、やはり糧穀の富みの蓄積には大きな差があるということだろう。

文:後藤健生

後藤 健生

後藤 健生

1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。64年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、「テレビでCLを見るよりも、大学リーグ生観戦」をモットーに観戦試合数は3700を超えた(もちろん、CL生観戦が第一希望だが!)。74年西ドイツ大会以来、ワールドカップはすべて現地観戦。2007年より関西大学客員教授

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