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サイクル ロードレース コラム 2025年6月20日

【ツール開幕直前!タデイ・ポガチャル徹底分析vol.1】スロベニア自転車界が生んだ天才。ポガチャルの原点とは?

サイクルロードレースレポート by 福光 俊介
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歴代最強選手との呼び声が高いポガチャル。その強さのルーツに迫る

ツール・ド・フランスで3度の個人総合優勝に、9度のワンデー・モニュメントを制覇。そして現役の世界王者。現代の自転車ロードレースシーンにあって、最高にして最強の男、タデイ・ポガチャルUAEチームエミレーツ・XRG)。4度目の頂点を目指し、今年もツールに乗り込む。もちろん、マイヨ・ジョーヌ候補の最右翼として。そこで、ツール開幕を前にポガチャルの強さや人柄に迫るコラムを数回にわたってお届けしていきたい。強くて、明るくて、優しくて…それでいて、勝負のときに見せる鬼気迫る表情。それらすべてを知るためのバイブルとしてほしい。

村の一輪車乗りから自転車へ

地平線上にいくつもの峰々が広がる国・スロベニアで、その男は生まれた。タデイ・ポガチャル、1998年9月21日生まれ。彼の父は丘陵地域、母は山の中の小さな村の出身。2人の血を継いだ4人兄弟の3番目は、首都リュブリャナの北20kmにあるコメンダの街で育った(一部情報ではKlanec出身とあるが、同地はコメンダ市内のコミュニティのひとつにあたる)。

レース中やその前後で見せる満面の笑みは、子供の頃からたたえていたという。「夫婦喧嘩をするたびに、私たちを元気づけてくれたのは彼だった」とは母・マルジェタ。きまって、歌とダンスでみんなを喜ばせた。

自転車乗りとしてのルーツは、物心ついた頃に兄・ティレンと乗り始めた一輪車だった。とにかくバランス感覚に秀でていた。そのスキルはコメンダの街では有名で、彼らの乗りっぷりを観ようと足を運ぶ人もいたほど。

しかし、一輪車との日々はそう長くは続かなかった。ある日、2人のそれが盗まれていたのだ。彼らの失意の一方で、この日を境に自転車競技界の未来が変わる。当然、そんなことは誰も、ましてや本人でさえも知るはずはない。

意外な事件をキッカケに自転車を始めることになったポガチャル

一輪車を失ったことを機に始めたのが自転車だった。当時9歳のタデイは、ティレンとともに「ログ・リュブリャナクラブ」に加入。彼らにとって、当時のヒーローはアルベルト・コンタドールとアンディ・シュレク。ツールでの激烈な戦いは、タデイの自転車熱に一層の拍車をかけた。「ひとりで窓の外を眺めていたから、何を考えているのか聞いたら“今日の練習ルートだよ”と答えたんだ」とは、タデイの小学校時代の担任の先生。

信念と家族の絆

ポガチャル家における自転車は、「倫理性と道徳観を身につけるための機会」であった。ティレンとタデイが集団の一員として活動し、成長していくことで、何事にも臆さない適応力のある大人になってほしいとの願いが込められていた。ある日、タデイが「今日は自転車を休みたい」といったとき、そこに明確な理由がないことをマルジェタは許さず、一度始めた以上は最後までやり遂げるべきだと説いたこともあったという。

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その信念は、のちにタデイがトッププロになってからも変わっていない。初のツール制覇となった2020年大会。第20ステージで大逆転し、総合表彰台の頂点が確定的になったのを受けて、当時のスロベニア大統領ボルト・パホルはポガチャル家のためにプライベートジェットを用意すると決めた。しかし、父も母もそれを断った。なぜなら、タデイとの約束があったから。当時22歳だったタデイは、クロアチア航空の格安チケットで家族をパリへと招く手配をしていた。そして、そのチケットはわずか1泊分。マルジェタにはフランス語教師としての、父・ミルコには椅子工場の生産責任者としての仕事があり、すぐに現場へと戻らなければならなかったためだ。

年俸7万ユーロから始まった最強物語

タデイにとって初めての国際レースは、16歳で出場したトロフェオ・チッタ・ディ・ロアーノ。約130kmのイタリアレースの成績は18位。目に見える成果を挙げるまで1年以上を要したが、この時期に出会ったアンドレイ・ハウプトマンとの歩みがキャリアを決定づけた。

恩師ハウプトマンとの出会いがポガチャルをトップレベルに引き上げた

2001年のロード世界選手権で3位に入ったことのあるハウプトマンは、早くからタデイの才能に気づき、積極的にスロベニア国外のレースに出場させた。ジュニア年代のレースを総なめにすると、どこよりも早く興味を示したUAEチームエミレーツ(現UAEチームエミレーツ・XRG)にタデイを送り込むべく奔走。ハウプトマン自身も、プロライダー時代にランプレで走った経験を持ち、イタリアをベースにするチームとの接点が多くあった。

着実に成長を続けたタデイは、プロへの登竜門「ツール・ド・ラヴニール」を19歳で制覇。その直前には、すでに相思相愛の関係にあったUAEチームエミレーツと契約。“師匠”ハウプトマンもスポーツディレクターとして同チームに招かれ、師弟としての歩みも続けられることとなる。

タデイがUAEチームエミレーツと最初に結んだ契約は、年俸7万ユーロ(現在のレートで約1200万円)。だが、その契約内容は長くは続かなかった。

文:福光 俊介

福光 俊介

ふくみつしゅんすけ。サイクルライター、コラムニスト。幼少期に目にしたサイクルロードレースに魅せられ、2012年から執筆を開始。ロードのほか、シクロクロス、トラック、MTB、競輪など国内外のレースを幅広く取材する。ブログ「suke's cycling world」では、世界各国のレースやイベントを独自の視点で解説・分析を行う

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