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サイクル ロードレース コラム 2020年3月30日

【プロトンは必ずやって来る!!】Cycle*2013 パリ〜ルーベ カンチェラーラ引退特別番組 〜スパルタクス 伝説の軌跡〜

サイクルロードレースレポート by 宮本 あさか
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ファビアン・カンチェラーラ

2010年 / 2013年 ファビアン「スパルタクス」カンチェラーラ、我が世の春

世界一のタイムトライアリストとしてその名を轟かせてきたカンチェラーラが、完全体へと進化を遂げたのは、2010年の春だった。

2004年ツール・ド・フランスの開幕プロローグ。いまだ線の細かった23歳の若者が、自身にとって初めてのグランツールの初日で、鮮やかに最速タイムを叩き出した。生涯を通して個人TTで10度のナショナルタイトル、史上最多4度の世界タイトル、2度の五輪タイトルを手にすることになる大チャンピオンの、それはデビューにすぎなかった。

その高い独走力を活かして、2008年にはミラノ〜サンレモをさらいとる。ティレーノ〜アドリアティコとツール・ド・スイスで総合優勝さえ飾り、一時はグランツールライダー転向の可能性も囁かれた。マイヨ・ジョーヌは最終的に、通算29日間も身にまとった。

ただしカンチェラーラが最も強烈な光を放ったのは、間違いなく、石畳の上だ。

最高のライバルもいた。2006年4月に初めて、カンチェはルーベの石畳トロフィーを天高く突き上げた。この年に力づくでねじ伏せた「フランドルの獅子」トム・ボーネンに、2年後は苦汁を飲まされた。

2010年、カンチェは恐るべき逆襲に出る。ボーネンが史上最多5勝を誇るE3プライス・フラーンデレン(現E3ビンクバンククラシック)では、残り1kmで宿敵を振り払い、翌週のツール・デ・フランドルでは、カペルミュールでの伝説的「ワープ」で一騎打ちを制した。ルーベ前夜のボーネンは、王者の誇りをかなぐり捨て、こう宣言したものだ。「明日はひたすらカンチェラーラに張り付く。1mmでも先にフィニッシュラインを越えれば、僕の勝ちだ」

しかしこの春のカンチェは、まさに無双。まずはアランベールの一本道で軽い揺さぶりをかけた。そこからボーネンが2度、3度と加速を仕掛けるも、悠々といなす。そして残り50km。10人ほどにまで小さくなった集団の中から……ボーネンが後ろにちょっと下がっている間に……カンチェは前に出た。「ボクが10m先に行けば、ライバルたちが怖がるはずだ」と。決してアタックではなく、あくまでも「様子見の加速」のつもりだったのだ!

あっという間にカンチェラーラは異次元の世界へと飛びたった。砂埃を辺り一面に撒き散らしながら。

トム・ボーネン

2012年大会を制したトム・ボーネン


3週連続の石畳クラシック優勝はまた、史上10人目のフランドル&ルーベ2大モニュメント同一年制覇だった。その2年後の2012年、ボーネンがこれを上回る快挙をなしとげる。人生2度目の2大モニュメント同一年制覇はもちろん、4大パヴェクラシック(E3、ヘント〜ウェヴェルヘム、フランドル、ルーベ)を完全独占。特にルーベでは史上最多タイとなる4度目の栄光をつかみとった。

翌年はカンチェラーラが大暴れする番だった。またしてもE3→フランドルで全てをなぎ倒した。一方でオフ中に左肘を痛めたボーネンは、石畳シーズンになんとか間に合わせたが、ヘントとフランドルで痛恨の落車リタイア。ルーベには姿を表さなかった。前年から本格的なクラシック参戦に乗り出し、E3とフランドルで次点に食い込んだた当時23歳のサガンも、ルーベは回避した。

その代わりスパルタクスの前に立ちはだかったのは……残り全員!「全プロトンvs僕。こういう構図になるだろうとあらかじめ分かってた」と、優勝記者会見で振り返ったように。

あらゆる方面から攻撃の手は伸びてきた。多くのチームが揺さぶりをかけた。おかげでとてつもなくハイスピード戦が繰り広げられた。カンチェのアシストたちは早い段階で疲弊し、脱落していった。残り50kmでエースは完全に孤立した。周りにはオメガファルマが4人も残っているというのに。

ファビアン・カンチェラーラ

「これは戦争だ」。カンチェは冷静に腹をくくった。なにしろ2011年大会で「俺を勝たせないならお前らも絶対に勝たせない」と、執拗にマークしてくる敵もろとも自爆したほどの豪傑だ。そのせいか否か。決して協調しようとしないライバルたちは、次々と不運の連鎖へ巻き込まれていく。最後までかろうじて生き残ったヴァンマルクケも、まさに蛇に睨まれた蛙のような状態だった……と後に告白している。

大歓声の自転車競技場へ飛び込んだカンチェは、格の違いをまざまざと見せつけた。24歳の若者を残酷にも蹴散らすと、大地にごろりと寝転んだ。

「自己の限界を超えてはるか向こう側まで突き抜けた。だから地球に帰ってくるまでに、1分ほど時間が必要だったのさ」

自身にとって2度目のフランドル・ルーベ同一年制覇であり、最後のルーベタイトルだった。翌年もう1度フランドルを勝ち取るが、ルーベは3位に終わった。そして人生最後のルーベを40位で走り終えた4ヶ月後、ライバルのボーネンよりも約1年早く……2016年リオ五輪個人タイムトライアルの金メダルで、その輝かすぎるほどのキャリアを締めくくった。

マシュー・ヘイマン

2016年大会を制したマシュー・ヘイマン


2016年 マシュー・ヘイマン、光の輪の中へ

予想外の選手が勝つことは、決して珍しいことではない。むしろパリ〜ルーベこそ、実力だけでは勝てない。長い経験や、忍耐力も必要とされる。幸運の女神を味方につけ、メカトラや落車も上手く避けねばならない。

早めの飛び出しが勝利に結びつくことだって、ルーベならしばし起こる。2011年には、残り82㎞で出来上がった先頭集団から、影の仕事人ヴァンスーメレンが逃げ切り勝利を飾った。2018年には210km逃げたディリエが、堂々2位に食い込んだ。

それでも、マシュー・ヘイマンが2016年ルーベを勝ちとった瞬間、とてつもない衝撃が世界中を駆け巡った。本人さえしばらくは、ただ戸惑うばかり。

「だって今朝は勝とうなんて思ってもいなかったから。スタート時の目標はチームメートを助けつつ、楽しむこと。たしかに以前は、野望を抱いて、この大会に乗り込んだこともある。自分自身に重圧をかけたことも」

でもこの年、38歳の誕生日を10日後に控えた大ベテランは、まるでプレッシャーを感じていなかった。2月末の骨折後、復帰わずか3戦目だったせいでもある。約190kmも逃げた果てに、大物たちに追いつかれると、「これでトップ5は確約できたぞ」とむしろ心に余裕が生まれた。しかも大会史上最多5勝目を狙うボーネンを横目で見ていたら、ひどくガチガチなのに気がついた。思い切って長いスプリントを打った。

「結局はすべての条件が揃ったんだよね」

陰ひなたなく所蔵チームのために、長年こつこつ働いてきたいぶし銀が、プロ4勝目を手に入れた。自身16回目のルーベでつかみ取った人生最大の勝利はまた、最後の勝利でもあった。

大多数のルーベ覇者とは違って……ヘイマンの春は、競技場で終わらなかった。勝利の美酒にゆっくり酔いしれる暇もなく、3日後には、いつものアシスト作業に戻った。そのままアルデンヌクラシックも3戦まるまる働き、直後にはツール・ド・ヨークシャーにさえ出場した。ようやく、それから、自宅へと帰り着いた。石畳を共に戦い抜いた相棒のバイクは、洗わずそのまま連れ帰った。

昨シーズン、祖国オーストラリアでダウンアンダーを走り終えたその日、ヘイマンは19年20日の長きキャリアを終えた。今は監督として、再び縁の下からチームを支えている。2020年初頭には、Jr版ルーベ開催委員会にこっそり資金援助も行った。自分に一生消えない栄光を与えてくれたルーベに、少しでも恩返しするために。

文:宮本あさか

宮本あさか

宮本 あさか

みやもとあさか。パリ在住のスポーツライター・翻訳者。相撲、プロレス、サッカー、テニス、フィギュアスケート、アルペンスキーなど幼いときからのスポーツ好きが高じ、現在は自転車ロードレースの取材を中心に行っている。

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