人気ランキング

J SPORTS IDを登録すれば、
すべての記事が読み放題

J SPORTS IDの登録(無料)はこちら

メルマガ

お好きなジャンルのコラムや
ニュース、番組情報をお届け!

メルマガ一覧へ

コラム&ブログ一覧

ラグビー コラム 2021年11月18日

【日本ラグビーを支えるスペシャリスト】日本ラグビーの進化を現場で見てきた アスレチックトレーナー皆川彰さんの想い

村上晃一ラグビーコラム by 村上 晃一
  • Line

2022年1月7日に開幕するジャパンラグビーリーグワンに向け、参加各チームは準備に余念がない。ファンの皆さんも胸を躍らせて開幕を待っていることだろう。日本ラグビーを支えるスペシャリストに光をあてる本コラムで今回ご紹介するのは、横浜キヤノンイーグルスのアスレチックトレーナー(メディカルアドバイザー)を務める皆川彰さん。皆川さんのトレーナー人生は、1984年、日本選手権を6連覇中だった新日鉄釜石ラグビー部から本格的に始まった。以降、日本代表のトレーナーとしてラグビーワールドカップに帯同するなど、トップレベルで日本ラグビーに寄り添ってきた皆川さんは、いかにしてトレーナーになり、日本ラグビーをどう見てきたのか。選手の意識の変化など現場から見た実感をお伺いした。

皆川彰さん

――まずは、アスレチックトレーナーの仕事について伺えますか。
「いろいろなバックグラウンドを持ったアスレチックトレーナーがいます。僕は治療専門のトレーナーとしてチーム・選手に関わってきましたが、トレーニングでパフォーマンスを上げていく人もいます。日本で言えば、柔道整復師、鍼灸師、マッサージ師という免許を持ち、加えて日本体育協会公認のアスレチックトレーナーというライセンスを取得している方が多いです」

――皆川さんは高校時代に陸上競技のハンマー投げの選手で、陸上競技マガジンのトレーナーの記事を読んで鍼灸あん摩マッサージ指圧専門学校に進まれたそうですね。
「ハンマー投げのインターハイの予選前に怪我をしたことがあって、治療して復帰したのですが、そんな経験もあってトレーナーの記事に興味を持ちました。専門学校に入学すると、そこにゴールドウィン(GW)のトレーナーの方が同じクラスにいて、鍼の国家資格を取得するため学びに来ていました。彼らにトレーナーになりたいという気持ちを話して、現場に連れて行ってもらうようになりました。そして、GWのトレーナーの一人である及川文寿先生と知り合いました」

――及川先生は当時、新日鉄釜石ラグビー部のトレーナーでもあったのですね。
「V3の頃から関わっていらっしゃいました。その及川先生が整骨院を立ち上げるということで声をかけていただき、そこで修行することになりました。そしてラグビーにも関わるようになったわけです」

――ラグビーというスポーツには詳しかったのですか。
「テレビで日本選手権を観戦するくらいでした。新日鉄釜石の菅平高原での夏合宿に帯同したのがラグビーとの初めての関りでした。そこで最初にテーピングを巻いた選手が松尾雄治さん(当時、日本代表SO)でした。僕は20歳で、まだテーピングすら上手く巻けなかったのですが、松尾さんは『テーピング巻いて』と声をかけてくれました。松尾さんはハッキリ言う人なので、『お前、ヘタクソだな』と言われました。今考えると、ぞっとするテーピングでした。悔しくて、もう二度と巻かせてくれないだろうと思ったら、松尾さんは合宿の最後まで一日2回、ずっと僕に巻かせてくれました。涙が出るほど嬉しかったです」

――育てようとしていたのでしょうね。
「そんな松尾さんには恩を感じていますし、ラグビーにずっと携わろうという気持ちになりました」

――皆川さんが最初に関わられたシーズンに、釜石は日本選手権で6連覇していますね。以降、さまざまなトップチームに関わるようになりましたね。
「1986年に高校日本代表のニュージーランド遠征のトレーナーになり、サントリーラグビー部にも関わるようになりました。サントリーの山本巖監督に声をかけられて手伝うようになり、土田雅人さんがキャプテンになった1989年からフルタイムのトレーナーになりました」

皆川彰さん

――サントリーで学んだのは、どんなことですか。
「昔は部活の延長のようなところがあり、怪我をしないようにするにはどんなケアが必要かを指導しなくてはいけませんでした。土田キャプテンが熱心に取り組んでくれました。そのシーズン、サントリーは東日本社会人リーグで初優勝したのですが、少ない選手数のなかでコンディショニングが上手くいき、主力選手が欠けることなくシーズンを乗り切ることができました。それがトレーナーとしての成功体験になりました」

――具体的にはどんなケアをしたのですか。
「練習後のアイシング、食事、練習後の治療がメインでした。当初は、一人で選手全員の体のケアをしていました。40名くらいいるので大変でしたが、できるだけ一日一回は体に触るようにしてコンディショニングを見ていました。ドクターと密に連携して、メディカルチームを充実させていこうというのもサントリーで行ったことです」

――のちに日本代表ヘッドコーチとなるエディー・ジョーンズさんともかなり早い段階で出会われていますね。
「1996年に山本巖さんが日本代表の監督になったとき、エディーさんと、グレン・エラをオーストラリアからアドバイザーとして招へいしました。その時にエディーさんから多くを学びました。大学ラグビーの映像を一緒に見ていた時、エディーさんが僕に『どうして大学生の練習はTシャツなんだ? どうして頭にタオルを巻いているんだ?』と聞くのです。僕は練習だから、と答えました。すると、『練習は試合のためにするのだから、試合で身に着けるもので練習をしなくてはダメじゃないか』と言われました。それで、サントリーも練習着を統一することにしました」

皆川彰さん

――話が前後しますが、1995年のラグビーワールドカップ(RWC)の日本代表にも帯同されていますね。この時の日本代表はどうだったのですか。
「あの頃は韓国と実力が拮抗していて、アジア予選の準備を入念にして、出場することが目的になっていた気がします」

――RWCでニュージーランド代表に大敗したことで、日本ラグビーも急ピッチで世界に追いつこうとしましたね。トレーナーの仕事としてどんな変化を感じていましたか。
「海外の良いところを、どんどん取り入れるようになりました。健康管理、トレーニングすべてです。それぞれの専門家を招くなど、大きく変わりました」

――選手の体力的な部分は進化していますか。
「僕は体力的には落ちていると感じています。持って生まれた肉体のパワーのようなものは昔の選手のほうが凄かったですね。それを生かしきれなかったのが事実だと思います。今の選手はトレーニングで鍛え上げ、組織的、戦略的なもので戦っている気がします」

――トレーナーに求められるものに変化はありますか。
「情報化社会ですから、アンテナを張り巡らして、治療もトレーニングも選手に提供していくことが求められますね。道具も進化して、ラグビージャージー、サポーター、スパイク、インソールなど物が良くなっています。選手も貪欲に取り入れていますね」

――インソールは、パフォーマンスにどんな影響があるのですか。
「良いインソールを使うことで、重心、足の踏ん張り方が変わり、アキレス腱はふくらはぎの負担が少なくなるので怪我が減ります。捻挫を繰り返している選手は、テーピングだけではなく、自分に合ったインソールを使うことで怪我をしなくなります。特注のインソールを使っている選手も増えていますよ」

――ジャージーもパフォーマンスに影響があるのですか。
「僕が初めて日本代表のトレーナーになったとき、チームの総務にジャージーを変えてほしいとお願いしました。当時のものは汗を吸ったら重くなっていました。軽くて汗をはじいて落とすようなものに変えてほしかったのです。ジャージーが軽いと後半のパフォーマンスが変わってきます」

――他に皆川さんが変えたことはありますか。
「試合後のストレッチです。昔は、試合が終わったらすぐにロッカーに行って休んでいる選手がいました。それはやめましょう、必ずクールダウンしましょう、と話しました。その必要性を多くの人に知ってもらうために、日本代表の試合後のクールダウンをインゴールでやるようにしました。怪我を抱えている選手はアイシングしてからロッカールームに戻らせました。その後、サントリーでもインゴールでクールダウンをするようになり、それがテレビで映されたことで広がっていったと思います」

――皆川さんがサントリーのトレーナーをされているときに選手だった中村直人さんが、試合前日に腰が痛くて、試合ができるか不安になって夜中の2時くらいに皆川さんに治療してもらったことがあると話していました。
「ありましたね。僕はそういう選手は大歓迎です。昔の釜石の選手はそういう人が多かったです。主力選手だった谷藤尚之さんがこっそり部屋に来たことがあります。他の人に治療しているところを見られたくないんですよ。最初に日本一のチームを経験したのはラッキーでした。サントリーでは釜石より良いチームを作りたい。それが目標でした」

――ラグビーからいったん離れたのはなぜですか。
「2003年に皆川鍼灸整骨院を開業して、専念しようと思ったからです。トップリーグが始まる年で永友洋司さんがサントリーの監督になって慰留されたのですが辞めました。それなのに、永友洋司さんがキヤノンイーグルスで監督になり、トップリーグに昇格したシーズンに声をかけてもらってラグビーの現場に戻ることができました。秩父宮ラグビー場のロッカールームからグラウンドに出る通路は、いったん暗くなってグラウンドに出ると急に明るくなりますよね。あの雰囲気を久しぶりに味わったら最高に気持ちよくて、感動して、嬉しくて、うっすら涙が出ました」

――皆川さんはリーグワンに向かう横浜キヤノンイーグルスでもアスレチックトレーナー(メディカルアドバイザー)を務めます。どんな役割になるのですか。
「チームメンバーの健康管理、体調管理、障害予防、外傷障害の応急処置、コンディショニングなどです。トレーナーの業務体制に関するアドバイスもします」

皆川彰さん

――トレーナーをしていて、一番の喜び、やりがいは何ですか。
「怪我をした選手が復帰して活躍してくれるのが喜びですが、一番は、試合で怪我無く勝利をつかむことですね。試合での緊張感はなかなか味わえないし、それもやりがいの一つですね」

――トレーナーを目指す人たちに、アドバイスをお願いします。
「とにかく現場に出てほしいです。現場で得るものがすべて自分の実になります。僕は及川先生、松尾雄治さん、日本代表選手たち会って良い経験をしました。現場では教科書に載っていないことをたくさん教えてもらえます。そして、トレーナーはコミュニケーションのテクニックが一番大事です。それは現場でしか学べません」

――最後に今後の目標を聞かせてください。
「横浜キヤノンイーグルスの優勝です。サントリーの頃から縁のある永友洋司さんがGMで、沢木敬介さんが監督です。少しでも力になれたらと思っています。そして、ラグビーをより安全に行える環境の整備、各チームが取り組んでいるアカデミーのサポート、女子ラグビーの強化とサポートもしていきたいです。ラグビーの力になりたいのは、松尾雄治さんのテーピングを巻かせてもらったという、ラグビーに対する恩義を感じるからです。それはずっと変わりません」

★プロフィール
皆川彰(みながわ・あきら)・58歳
1984年新日鉄釜石ラグビー部菅平合宿からトレーナーとして本格的に活動。日新製鋼、高校日本代表を経て、1989~2003=サントリーラグビー部フルタイムトレーナー。1992~97=15人制日本代表、1994~98=7人日本代表を担当。2013年よりキヤノンイーグルスのトレーナーを務める。皆川鍼灸整骨院院長、恵比寿 WITHボディメンテ治療院

文:村上 晃一

村上晃一

村上 晃一

ラグビージャーナリスト。京都府立鴨沂高校→大阪体育大学。現役時代のポジションは、CTB/FB。86年度、西日本学生代表として東西対抗に出場。87年4月ベースボール・マガジン社入社、ラグビーマガジン編集部に勤務。90年6月より97年2月まで同誌編集長。出版局を経て98年6月退社し、フリーランスの編集者、記者として活動。

  • Line

あわせて読みたい

J SPORTS IDを登録すれば、
すべての記事が読み放題

J SPORTS IDの登録(無料)はこちら

ジャンル一覧

J SPORTSで
ラグビーを応援しよう!

ラグビーの放送・配信ページへ