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もうもうとたちこめる砂埃を突っ切ってきた選手たちの顔はみな、すすけた茶色に染まっていた。ヒップスターたちの自慢の髭も、たっぷりと分厚い粉をまとっている。前夜にはほんの少し雨が降ったけれど、レース当日は初夏のような太陽がパヴェを照りつけた。例年、乾いた石畳の上では、高速レースが展開されるもの。しかも強烈な南風が、選手たちの背中を押した。1968年に現行レース体制になって以来、2番目に速い時速でプロトンは駆け抜けた(43.476km/h)。
「カンチェラーラとボーネンがいない今大会は、2011年のように無印選手が逃げ切るか、もしくは10人程度のスプリントで締めくくられる」。こんな風に勝者が前夜に予言した通り、7選手が塊となってルーベ自転車競技場に飛び込んだ。つまり7人でのスプリント勝負。これも過去20大会で、やはり2番目に多い人数だった(1997年大会が8人、3番目は2004年大会の4人)。
しかし、勝者の予言が、全て当たったわけではない。「スプリント勝負になる場合は、僕があえてアクションを起こす必要はないと思う」と語っていたジョン・デゲンコルブは、自ら果敢に攻め、そして力づくで得意のスプリントにねじ込んだ。1月に生まれたばかりの愛息レオ君が、初めてレース会場に応援にやってきたその日に、パパは石畳トロフィーを天高く突き上げた。1896年第1回大会を制したヨゼフ・フィッシャーに続く、史上2人目の、ドイツ人パリ〜ルーベ覇者となった。
序盤のアスファルト区間で9人の逃げが出来上がり、最大10分程度の差を開いた。全部で27ヶ所ある石畳ゾーンに突入すると、2015年北クラシックを常に活気づけてきたエティックスとスカイの主導により、じわじわと差は縮まっていった。もちろん度重なるメカトラや落車で、メイン集団は小さく絞りこまれていく。“ポン・ジビュス”の愛称でおなじみの第17セクターを横切る踏切では、TGVの通過で集団が2分割されたことさえあった(審判団の判断で集団はひとつに戻された)。もちろん単なる石畳の振動に耐え切れず、自ら千切れていく者のほうが多かった。
ラスト50kmを切り、第10セクターのモン・アン・ペヴェールで、エティックスが真っ先に動いた。北クラシック精鋭軍はE3ハーレルベーク2位、ヘント〜ウェヴェルヘム2位、ツール・デ・フランドル2位と、ここまで全て攻撃的に走り、全て2位に甘んじてきた。石畳最終戦も、あくまで、やり方を変えるつもりはない。サブリーダー級のステイン・ヴァンデンベルフを、切込隊長として前方へと送り出した。
第7セクターのタンプルーヴに差し掛かると、スカイの“サー”が腰を上げた。ゴールまで33km、2012年ツール・ド・フランス覇者ブラドレー・ウィギンスが加速し、ロットのイェンス・デブシェールとエティックスのシュティバルが張り付いた。そのままヴァンデンベルフをもとらえた。……しかしエティックス数的優位の状況で、4人の足並みは上手く揃わない。後方からも諦められないライバルチームたちが、猛烈に追い上げてくる。「伝説のレースを制して、ロードレーサーとしてのキャリアを華やかに締めくくりたい」と願ったウィギンスは、結局ほんの4kmほど見せ場を作っただけで、あっさりとメイン集団へ回収された。朝から逃げ続けていた選手たちも、すべて後方へと追いやられた。
集団にはいまだ25人ほどがひしめいていた。第4セクターのカルフール・ド・ラルブルを抜けても、北の地獄に似つかわないほど、メインプロトンは大きかった。フィニッシュまで12km、残る石畳は2ヶ所。集団を壊したいエティックスが、今度は若きイヴ・ランパルトに仕掛けさせた。3月上旬の西フランドル3日間で総合優勝を果たした24歳のアタックに、1週間前のツール・デ・フランドル3位のBMCフレフ・ヴァンアーヴェルマートが飛び乗った。リードはすぐに広がった。
ここで、いよいよ、デゲンコルブがアクションを起こす。1年前は、ゴール前6kmで、ニキ・テルプストラの飛びだしをあっさり見送ってしまった。第2集団のスプリントを制し、2位で終わり、ひどく悔しい思いをした。
「昨年のビデオを何度も見なおして、自分は何をすべきだったのかを考えた。監督やチームメートたちと何度も話し合いをした。今日もしも、あそこで動いていなかったら、昨年よりいい成績は上げられなかったかもしれない。ゴール前10kmで心に決めたんだ。今こそ動く時だ、『オール・オア・ナッシング』で行こう、って」(デゲンコルブ、公式記者会見より)
まずはアシスト役のベルト・デバッケルを、メインプロトンから先行させた。少し距離ができたところで、デゲンコルブ本人が飛び出した。そのままデバッケルを踏み台代わりにして、さらにスピードを上げると、たった1人で前をを追いかけた。5kmほどの奮闘の果てに、ついに前の2人をつかまえた。トップスプリンターが合流してきたのだから、当然のごとく、ヴァンアーヴェルマートとランパールとは先頭交代を拒否した。デゲンコルブは単独で前を引っ張った。後方からシュティバルが猛追をかけてくると、ようやくヴァンアーヴェルマートも協力する素振りを見せたけれど。
シュティバルの合流、それと同時にランパールトのアタック。エティックスは攻撃的態度を貫いた。しかしデゲンコルブは、誰一人逃さない。そうこうしているうちに、後方からさらに3人追い付いてきた。そのまま7人で、ルーベ競技場へと入場した。セメントのバンクの上で、ランパールトは先頭でリードアウト役を務め、その背後でシュティバルはスプリントに備えた。しかし、2015年のエティックスには、スプリンターが決定的に足りなかった。
「うん、おそらく、チームの中で唯一ボーネンだけが、クリストフやデゲンコルブといったビッグスプリンターたちを倒せる可能性を有していたんだと思う。トムの不在は大きかった。でも僕らは僕らのベストを尽くしたんだ」(シュティバル、公式記者会見より)。
デゲンコルブは一瞬の加速であっさり先頭に躍り出ると、「まるでグミみたいに」重く絡みつく脚を夢中で回して、そしてフィニッシュラインで歓喜の雄叫びを上げた。またしても2位に終わったエティックスのシュティバルと、またしても3位ながら「先週とは違って、自分の力を全て出しきったから満足」と語るヴァンアーヴェルマートを尻目に、3週間前のミラノ〜サンレモに続く2つ目のモニュメントをさらい取った。サンレモの表彰台では大粒の涙を流したデゲンコルブは、この日は満面の笑みでチームメートたちと喜びを分かち合った。
「チームのみんなにお礼を言いたい。この場に来ている関係者だけでなく、自宅でレースを見ているコーチにも。マッサーからバスの運転手まで、とにかく、全てのチーム関係者が僕を信じてくれた。僕を支えてくれた。そして、僕らは、やったんだ。やり遂げたんだ。すごい感動だよね。まずは僕のアパートの、どこに石畳トロフィーを置くべきなのか、考えないとなぁ。簡単じゃないよ。だって大きくて、重いから、しっかり安定した土台を作らなきゃ。本当に、言葉では上手く表せないくらい、僕にとっては大きなこと。偉大なる先人たちに並んで、勝者リストに自分の名前が記されるなんて、なんて素敵なんだろう。それに、ここのシャワー室に、僕の名前が刻まれたプレートが設置されるんだよね。これが今日の勝利の、最高にアメージングなご褒美かもしれないな」(デゲンコルブ、公式記者会見より)
第2集団に残されたウィギンスは、ゴール前3kmで、もう一度アタックを試みた。優勝で引退の花道は飾れなかった。人生最後のワールドツアーレースは18位だった。それでも、”元ツール・ド・フランス総合勝者”という名のパンチドランカーから、どうやら抜け出せたようだ。
「まるで16歳に戻ったような気分だった。ロンドンの、家の近所で、トレーニングしていたあの頃に。いい気分だった。数年後に今日のことを思い出して、『俺も一時はレースの先頭を走っていたんだぞ』って言えそうさ(笑)」(ウィギンス、チーム公式HPより)
ウィギンスはあと数週間でロードレースに別れを告げ、昔なじみのトラック競技へと専念する。そして自転車界一行はごつごつした北の大地を離れ、アルデンヌの美しき丘陵地帯へと戦場を移す。
宮本 あさか
みやもとあさか。パリ在住のスポーツライター・翻訳者。相撲、プロレス、サッカー、テニス、フィギュアスケート、アルペンスキーなど幼いときからのスポーツ好きが高じ、現在は自転車ロードレースの取材を中心に行っている。
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