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モン・ヴァントゥに、またひとつ、不幸な逸話が加わった。1967年、トム・シンプソンが登坂中に命を落とした。1970年、区間勝利を果たした直後に、エディ・メルクスはめまいを訴えて倒れこんだ。2000年、熾烈な接戦の果てに、ランス・アームストロングがマルコ・パンターニに区間勝利を「譲った」と発言し、稀代のヒルクライマーの誇りをズタズタに切り裂いた。そして2016年7月14日。強風でゴール地は移動され、総合争い真っ最中の3選手がオートバイとの接触で落車した。さらにはマイヨ・ジョーヌが自転車を担いで走って……。
天気予報はしきりに、モン・ヴァントゥの山頂付近では時速110kmの突風が吹くだろう、と繰り返していた。おかげで禿山の「禿」の部分--つまり草木の緑が姿を消し、石灰岩の真っ白で無機質な世界が広がるゾーン--は、完全にカットされた。選手だけでなく、観客の安全も考慮して、山頂から6km手前にフィニッシュラインは下げられた。
大逃げ好きにとっては、これ以上に心躍るチャンスはなかったはずだ。なにしろ15.7-6=9.7kmを先頭で上りきることさえできれば、「モン・ヴァントゥ覇者」のタイトルが手に入る!こうしてスタート後、すぐに13選手が長い逃げを始めた。革命記念日勝利を夢見て、フランスの3選手も滑り込んだ。メインプロトンは寛大に、前半100km以上は延々も平地が続くコースで、最大19分もの大差を与えた。
逃げ切りの可能性が、消えかけたこともあった。ゴールまで85km、平地でも吹き荒れていた強風を利用して、突如としてエティックス・クイックステップが加速分断を仕掛けたのだ。これを合図に、あらゆる総合チームが前に前にと詰めかけた。集団スピードはうなるように上がった。山岳ジャージを身にまとうティボ・ピノが、前日の落車の影響であっという間に後方に置き去りにされてしまったのも、他のヒルクライマーたちの加速意欲を刺激したに違いない。そこから延々50kmに渡って、猛烈なスピード合戦は繰り広げられた。
ゴール前35km、タイム差は7分50秒にまで縮まった。プロトン先頭ではサイモン・ゲランスが牽引役を続け、背後ではマイヨ・ジョーヌ擁するスカイが隊列を組んでいた。ヴァントゥの前菜代わりに、小さな2つの峠をこなし、ちょうど下りに差し掛かっていた。そんな時だ。オリカ・バイクエクスチェンジのベテランが、激しくアスファルトにたたきつけられた。スカイのアシスト3人を巻き込んで……!
しかも、なんとフルーム自らが後方に下がり、遅れたチームメートを引っ張り上げた。これではプロトン内のライバルたちも、一時的な減速を受け入れるしかなかった。おかげで逃げ集団は、再びタイム差を10分近くまで広げた。逃げ切りが、見えてきた。
「プロヴァンスの巨人」の山道に入る直前、逃げ集団からアンドレ・グライペルが真っ先にアタックを打った。前日はヒルクライマーがスプリントをしたが、この日はスプリンターがヒルクライムに挑むというのだろうか。いや、「ロストックのゴリラ」の目的は、共に逃げていたトーマス・デヘントをアシストすること。自分が前に出ることで、他の選手にさんざん足を使わせること。だからしばらく上りでもがいた後、静かに吸収されていったグライペルは、満足そうに後方へと消えていった。
「強いチームメートが、僕のそばについていてくれた。シーズンここまで、僕はグライペルのためにたくさん働いてきた。でも今日は、彼が僕のために働いてくれた。彼のような偉大なる選手が僕をサポートしてくれたなんて、とてつもなく名誉なこと」(デヘント、チーム公式HP)
モン・ヴァントゥに入るとデヘントは、いの一番に加速した。すぐにダニエル・ナバーロとセルジュ・パウエルスとの3人に、先頭は絞り込まれた。ところがまずは残り約7kmで、デヘントが脱落していって……。
「自分のペースで走ろうと決めたんだ。だから一旦は距離を開けられてしまった。でもパニックにはならなかった。自分のリズムを保ち続けた。こうしてうまく前方へ返り咲いた」(デヘント、チーム公式HP)
思惑通りにラスト5kmでデヘントは2人を捕らえた。残り3.5kmでは切れ味鋭いアタックも仕掛けた。しかしそう簡単には、敵を引きはがせなかった。ヒルクライマーのナバーロは一旦は遅れながらも、驚異的な粘り腰でラスト650mで戻ってきた。同じトップスポール出身のフランドル人で、2014年はチームメートでもあったパウエルスとは、最後の最後まで力比べが続いた。ラスト100mで見せた最後の猛ダッシュが、デヘントに勝利をもたらした。
2012年5月のステルヴィオ山頂は、凍えるほどに寒かった。深い霧を突き破って、デヘントは標高2758mの山頂にひとりで姿を現した。イタリア屈指の有名峠を手にしたベルギーの大逃げ職人は、この日は、何重にも連なる観客の間をかき分けて、ツールの伝説峠を勝ち取った。あの年はジロで総合3位に入った。今年は初めてのツール区間優勝で、念願の山岳ジャージを取り戻した。
「今日の勝利とステルヴィオの勝利のどちらかを選ぶのは難しい。ツールのほうが重要なレースだし、でもジロのステージは僕にとっては、キャリアで初めての大きな勝利だったんだ。それに総合3位をもたらしてくれた勝ちでもあるから」(デヘント、チーム公式HP)
こんなデヘントの区間勝利、山岳賞、敢闘賞の表彰が済んでも、さらにグルペットで1日を終えたペーター・サガンに新たなポイント賞ジャージが授与されても、マイヨ・ジョーヌとマイヨ・ブランの表彰式だけは一向に始まらなかった。原因はゴール前1200mで起こった事故。タイムを救済するか否かで、審判団と開催委員会との協議はひどく長引いたのだ。
モン・ヴァントゥの山道で、メイン集団は熾烈なバトルを繰り広げた。なにより、ついにモヴィスターが、フルームへの本格的な反撃を試みた。まずはジョーカーのアレハンドロ・バルベルデが、上り始めで飛び出した。マイヨ・ジョーヌ本人は反応せず、スカイ列車がスピードを上げて回収に向かった。その直後には、リーダーのナイロ・キンタナが、アタックを打つ番だった。しかしこれも、フルームを慌てさえるほどの威力はなかった。やはりスカイ列車が、淡々と小柄なコロンビア人に追いついた。そして再び……とキンタナは軽く動くも、試みは自らの脚で中断された。
「振り返ってみると、あまりにも早くアタックを仕掛けてしまったように感じている。強い向かい風が吹いていたし、すぐに捕まえられた上に、エネルギーを少し失ってしまった」(キンタナ、チーム公式HP)
それでも山道の最終盤、フルームがいつものように、突如として座り漕ぎでペダルを超高速回転させたときは、なんとかついて行けた。しかし、その直後、立ち漕ぎでの超高速回転をお見舞いされると、もはや何も出来なかった。キンタナは静かに後方へと遠ざかっていった。代わりに「フルームの元ナンバーワンアシスト」リッチー・ポートは、フルームの後輪から決して離れなかった。またワンテンポ遅れて、モレマが合流してきた。
キンタナからできる限りタイムを奪いたいフルームと、人生初のグランツール表彰台に向けてライバルたちを突き放したいモレマ、さらに1週目のメカトラで失ったタイムをなんとか回収したいポート。3人は共通の利益に向かって、ひたすら前へと突っ走った。ただ敵は、後方からものすごい勢いで追いかけてくるライバルや、山頂に上がれば上がるほど強くなっていく風だけではなかった。
観客だ。本来ならば山頂手前の広い道に詰めかけるはずの観客が、新たなゴール地の細道にぎゅうぎゅうに押し込まれた。しかも観客とコースを隔てるフェンスは、最低でもラスト1500mに渡って設置されるものだが、様々な要因が重なって……、この日は600mしか設置されていなかった。
「フィニッシュラインは天候状況のせいで、前日に変更された。そのせいで全てのフェンスを移動することはできなかった。しかも新たなゴール地は、風や、道幅などの要因で、いつもよりもフェンス設置距離が短くなってしまったのだ」(クリスティアン・プリュドム、ツール開催委員長、TVインタビュー)群衆のど真ん中で、フランスTV局のカメラバイクは、前に上手く進めなくなってしまった。そこに、タイム差のことだけを考えて夢中で走ってきたポート、フルーム、モレマが激突した。いつもならフェンスのある場所で、3人は地面に折り重なるようにして落車した。モレマはすぐにバイクに飛び乗り、フィニッシュを目指した。フルームは壊れたバイクを担いで走り出した。ポートはその場でバイクを調整し、3人の中では一番遅く再スタートを切った。しかもフルームやポートは、悪戦苦闘している間に、突き放したはずのライバルたちからことごとく追い抜かれてしまった。
中でもフルームは、最終的には代替自転車を待つことにしたせいか、キンタナやアダム・イエーツから1分20秒近くも遅れてフィニッシュラインへ帰ってきた。2016年ツール規則の第20条によると、ゴール手前3km以内で発生した落車、パンク、メカトラが原因で集団から遅れた場合、事故発生時に属していた集団と同じゴールタイムが与えられることになっている。ただし、このルールは、タイムトライアル区間(第13・18ステージ)と登りフィニッシュ区間(第2、9、12、17、19ステージ)は適応外。つまりフルームはマイヨ・ジョーヌ喪失どころか、総合表彰台からも弾き飛ばされてしまう……。
3人のレース終了から約1時間、審判団による協議は続けられた。会場を盛り立てるレースDJたちは、その間、「フルームはメカトラブルで遅れた」とだけ何度も繰り返した。現場には強風のため1台のテレビスクリーンも設置されておらず、現場の記者やファンはほぼパンク状態のインターネットを頼りに状況を把握するしかなかった。そして、現地時間の18時15分過ぎ、ついにフルームがマイヨ・ジョーヌ表彰式に姿を現した。
フルーム、ポート、モレマの3人には、特別にタイム救済処置が施された。事故発生時のタイム差、すなわちキンタナやイェーツの集団に対する22秒リードがそっくりそのまま、ゴールタイムに反映された。イェーツは総合2位&マイヨ・ブランの立場は変わらないが、総合での遅れは28秒から47秒に開いた。またキンタナは54秒差の総合3位。モレマは5位から4位に浮上した。
観客の心ない野次や、たくさんのフラッシュやマイクから逃げるように、フルームは何も言わずに現場を立ち去った。なにしろ翌日には、大切な個人タイムトライアルが待っている。なにより、大急ぎで、魔の山モン・ヴァントゥを逃げ出さねばならなかった。夕刻の山にはとてつもない突風が吹き荒れていた。山の上までの道沿いには、使用されなかったフェンスがあちこちに放置されていた。
この日の夜、落車に負けずステージを最後まで走り切ったゲランスが、ゴール後の検査で鎖骨を折っていたことが判明した。36歳のベテランは、大会からの棄権を発表した。革命記念日の夜、フランスはまたしても残酷なテロの舞台となった。標的となった場所は、2013年ツールでこのゲランスがマイヨ・ジョーヌを手に入れた、ニースのプロムナード・デ・ザングレだった……。ツールはまだ半ばを過ぎたばかり。全ての関係者が、全ての意味で安全にシャンゼリゼまでたどり着けるよう、ただ祈るだけだ。
宮本 あさか
みやもとあさか。パリ在住のスポーツライター・翻訳者。相撲、プロレス、サッカー、テニス、フィギュアスケート、アルペンスキーなど幼いときからのスポーツ好きが高じ、現在は自転車ロードレースの取材を中心に行っている。
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