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ラグビー コラム 2019年6月12日

ラグビーを愛するトップビジネスマンに聞く~片山酒造 片山 貴之社長~

ラグビーのすゝめ by 村上 晃一
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片山 貴之

國學院久我山で厳しい練習に耐え4度目の全国制覇

──片山さんは國學院久我山高校のラグビー部のご出身です。ラグビーとの出会いを教えてください。

「私はここで生まれ育ち、中学までは地元の学校に通いました。当時はラグビー人気が高く、子供の頃からテレビでラグビーを見ていました。新日鉄釜石が全盛期で、早明戦では早稲田大学の本城和彦さんらが活躍した時代です。学校の先生がホームルームの時間に慶應義塾大学のラグビー部のドキュメンタリーを見せてくれたこともあります。だから私は高校に行ったらぜったいにラグビーをしようと思っていたのです。早明戦のスターティングメンバーを見ると、久我山高校出身者が多かった。私が中学2年生のときには、久我山は全国高校大会で3度目の優勝をしました。だから、親に東京に行かせてほしいと頼みました」

──ラグビーは未経験ですよね。

「そうなんです。小学校ではサッカー、中学では柔道をしていました。どうしても久我山に行きたくて、親戚の家に下宿させてもらって通うことになりました。新入部員が100人ほどいました」

──100名とは、ものすごい数ですね。

「私は昭和43年生まれなのですが、41年が丙午(ひのえうま)だったから、42、43年はものすごく子供の数が多いのです。2年生も70名ほどいました。学校自体も大きな男子校で一学年17クラスありましたよ」

──そういうときは練習が厳しくなるんですよね。部員を減らすために(笑)。

「その練習に耐えて頑張ったことは私の誇りです」

──3年生になったときには、何人残ったのですか。

「2年生で70名くらいいたのですが、当時の久我山は受験もしっかりやらせていたので、3年生に上がるとき、レギュラーになるのが難しい生徒は受験に専念させるのです。我々が3年生になったとき、部員は30名くらいになりました。私はなんとか残りました。そして、我々の期は4度目の全国制覇を成し遂げます(昭和61年度、第66回大会)。私はフランカーでしたが試合には出られませんでした。部員はみんな日本一を目指していますから、和気あいあいというよりも、厳しい雰囲気のあるチームでした」

──同期の皆さんとは今も会いますか。

「しょっちゅう会っていますし、最近は久我山だけではなく、明大中野、保善、大東大一など他校との飲み会があります。高校時代のラグビー部で何を学んだかといえば、厳しい雰囲気の中で、友情やチームワークを学んだのだと思います」

──大学では続けなかったのですね。

「大学時代は遊びました(笑)。アルバイトでお金をためて海外を旅しました。一人でアメリカを放浪したこともあります」

──家業は継ぐつもりだったのですね。

「大学卒業後、廣屋(ひろや)という老舗の酒問屋に就職しました。廣屋の社長はラグビーが大好きでラグビー部がありました。たまたま久我山OBの先輩も社員にいて、私以外にも同期でラグビー経験者が入った。社長が、そういう選手が入って来るなら強化するということで韓国代表選手を入れたこともありました。だから、当時所属していた関東社会人4部リーグでは無敵です。社会人では5年間プレーして2部リーグまで上がりました。私は、高校時代はフランカーでしたが社会人ではセンター。当時、大型センターが流行っていて、パスしないセンターでした(笑)」

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