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ラグビー コラム 2019年5月29日

ラグビーを愛するトップビジネスマンに聞く~吉野家 田中 安人CMO~

ラグビーのすゝめ by 村上 晃一
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田中 安人

ラグビーの神様に恩返しをするために生きている!!

──田中さんはさまざまな分野でご活躍されています。現在取り組まれていることを教えていただけますか。

「株式会社グリッドのCEOをやりながら、吉野家のチーフ・マーケティング・オフィサーをしています。そして、公益財団法人日本スポーツ協会広報・スポーツ情報専門委員会委員です。有森裕子さんらオリンピアンの人たちと活動していますが、ミッションは日本のスポーツの価値向上です。日本スポーツ協会は元々JOCの親団体です。約100万人の指導者の管理団体ということもあって、最近起きている不祥事をなんとかしなくてはいけない。早稲田大学の教授、JOCの理事、日本サッカー協会の常務理事、県体育協会専務理事と僕の6人で、そのルール作りもしています。これは僕のライフワークです」

──ラグビーに関わり始めた、きっかけを教えていただけますか。

「平尾誠二さんです。中学生の頃にドラマの【スクール☆ウォーズ】が作られるきっかけになった試合(1981年1月7日 全国高校ラグビー大会決勝・伏見工業対大阪工大高)を花園ラグビー場で見てしまったんですよ。伏見工業が初の日本一になるのですが、そのキャプテンが平尾誠二さんでした。すごい内容で衝撃を受けました。その後、京都府立洛水高校に進学し、ラグビー部の門を叩きました。そこで出会ったのが命の恩人のラグビー部原田弘監督でした。そこからすべてが始まりました。原田先生には厳しく、高潔、フェアプレー精神、自由と規律などラグビーの本質を教えて頂きました。当時、日本一にもなった天理高校に合宿に行くなど、いろんな経験もさせて頂きました。僕はフランカーだったのですが、オール京都選考会で伏見工業高校のグラウンドで山口良治さんに指導を受けたこともあります。でも、その頃は、そういう環境にいる価値が分かっていなかった。分かっていたら何が何でも高校日本代表になれるように頑張ったと思います。」

──帝京大学に進学したのは、なぜですか。

「原田先生は京都の西京商業高校ラグビー部の監督時代に、早稲田大学に進んで日本代表SOにもなった星野繁一さんらを育てられています。その頃、早稲田大学OBの皆さんが帝京大学をサポートされていて、その縁で原田先生に背中を押されて帝京大学に行くことになりました。緩いスタートなのですが、結論を先に言えば、僕は今、ラグビーの神様に恩返しするために生きています。」

──ラグビーをしていたことが、いまの仕事に生きているということですか。

「いまの仕事のベースも、すべてラグビーから来ています。『チームワーク』、『ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン』などですね。大学卒業後、僕はヤオハン・ジャパンに入社しました。ヤオハンというスーパーは海外に広く展開していて、海外を飛び回りながら経営企画を勉強しました。ところが、29歳のときに会社が倒産したのです。その時僕は経営企画室にいて、倒産劇を間近で見ました。3,000億円の上場企業がなくなるなんて、当時は前代未聞でした。
そのとき、学んだことがいくつかあります。世界に3万人いる従業員を路頭に迷わせないために、愚直な経営企画のメンバーが死ぬ気で会社更生計画を作ったのです。その時、愚直な人間が仲間を守るために精鋭になっていくことを体感し『チームワーク、ビジョン、パッション』の大切さを学びました。優秀な人材は、現場から作られ、その三拍子が揃えば、どんな人でも優れた人間に成長できる可能性を秘めていると確信しました。」

──倒産後はどうされたのですか。

「早稲田大学ラグビー部の監督も務められた高橋幸男さん(現姓・松久)の広告制作会社でお世話になりました。そこで仕事を覚え、仲間と広告代理店を作りました。女子十二楽坊を中国で見つけ、日本で売り出しました。そうしたら紅白歌合戦に出るまでになりました。サッカーのレアルマドリードを来日させたこともあって、こちらも大成功しました。その後、独立してコンサルティング会社を経営しいまに至ります」

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