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モーター スポーツ コラム 2021年3月3日

また一人、合掌

今日も今日とてプッシュ&ルーズ by 高橋 二朗
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同氏は83年にアウディ・クワトロA1とA2を操りドライバーズチャンピオン獲得した。写真は83年のラリーUKでのミシェル・ムートンがドライブするアウディ・クワトロA1。

またしても海外から訃報がもたらされてしまった。
先週の金曜日、2月26日にリジェンド・ラリードライバーの一人、ハヌー・ミッコラ選手が逝去した。享年78歳。
世界ラリー選手権の取材に初めて訪れた1983年のRACラリーでワークスAudiチームの一員として氏は参戦していた。僕は、国産自動車メーカーのサテライトチームのサポートもしていたので、遠目に見るだけで近づくことはできなかったが、ラリーの終盤にサービスポイントでAudiワークスを見かけることができて、その際に見た氏の存在は距離を置いていてもオーラを感じた。

氏は、日本の自動車メーカーとも縁があった。Toyota Team Europe(TTE)のサポートを受けトヨタ・カローラ(レビンTE27)を駆って1975年に地元の1000湖ラリーで優勝している。その当時TTEで唯一の日本人エンジニアとして従事していたH氏に聞いたことがある。「セットアップのために走ってくるように言ったら、すぐに帰ってきてので、<どうした>と聞くと、シフトノブが折れちゃったって。折ろうと思っても折れるようなものではないのに、へし折っちゃうのだから、奴は、物凄い力でシフトチェンジしていたんだな。そこで、シフトノブを太くした(笑)」

83年のRACラリーでは、僚友のブロンキスト選手に次ぐ2位だったけれど、年間4勝しチャンピオンとなっていた。80年代に挙げたWRCの優勝はAudiを駆ってのみだったから、ずっとAudiのドライバーかと思ったら現役の終盤は、マツダ、スバル、そして、引退の年には再びトヨタのセリカ・ターボ4WDをドライブしていたことがわかった。トヨタには縁があるドライバーだった。

そういえば、83年のRACラリーが終わり、某国内チームのドライバーとコ・ドライバーを迎えにパルクフェルメの入り口で待っていると、その二人がニコニコ笑顔で出てきた。同チームは、初出場でグループAクラス7の優勝。だから喜んでいたのだと思っていたら、二人揃って自分のヘルメットをとても、とても大事そうに抱えていて、そこにはミッコラ選手のサインがしてあった。「サイン貰っちゃったよ。最高!」ヘルメットを持ってあげようかと言っても手放さない。自身の優勝よりもそのサインが大事だし、嬉しかった様子に少し呆れた。そのくらいハヌー・ミッコラというドライバーは憧れの的だったということだったのですね。氏の逝去に際して昔のエピソードを思い出しました。合掌。

文:高橋 二朗

高橋 二朗

高橋 二朗

日本モータースポーツ記者会。 Autosport誌(英)日本特約ライターでもあり、国内外で精力的に取材活動をするモータースポーツジャーナリストの第一人者。1983年からルマン24時間レースを取材。1989年にはインディー500マイルレースで東洋人としては初めてピットリポートを現地から衛星生中継した。J SPORTSで放送のSUPER GTのピットレポーターおよび、GTトークバラエティ「GTV」のメインMCをつとめる。

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