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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。
64試合目の凱旋。エドゥアルド、祖国に還る。
1999年9月。
右も左もわからないままに降り立ったその地で
1人のブラジル人は必死にもがき続けた。
2004年11月。
誰からも認められる実力を身に付けた彼は
その地のナショナルチームでプレーすることを選択する。
そして、2014年6月12日。
祖国を後にしてから15年の月日が流れたこの日、
男は世界最高峰の舞台に凱旋した。
エドゥアルド・ダ・シルヴァ。31歳。
偉大なるダヴォル・シュケルに次ぐ代表通算ゴール数を誇る
"クロアチア人"ストライカーこそがその人である。
ブラジルでサッカーを生業にするのは大きなステータスだ。
プロサッカー選手になるためなら、
どんな国にだって赴くことを厭わない。
日本や韓国、中国といった極東なんて当たり前。
フェロー諸島でだって、アイスランドでだって
ブラジル人サッカー選手は必ずと言っていい程にプレーしている。
16歳で海を渡ったエドゥアルドも、
そういう多くのブラジル人たちと変わらない
ありふれたキャリアを過ごす可能性は十分過ぎるほどにあった。
ただ、抜群の得点感覚を有していた彼は徐々に頭角を現していく。
2004年5月にクロアチアU-21代表へ招集されると、
同年11月にはフル代表デビュー。
所属のディナモ・ザグレブでは
リーグ得点王とアシスト王の2冠に輝くなど、
順調に異国でのキャリアを積み重ねていった。
第二の母国を離れる時は突然にやってくる。
そのシーズン初頭のUEFAチャンピオンズリーグ予備予選で
チーム唯一のゴールを叩き込んだアーセナルから
巨額のオファーが舞い込む。
リーグ戦32試合34得点という規格外の結果を手土産に2007年、
エドゥアルドはガナーズの一員になることを決意。
開幕早々に出場機会を得ると、
少しずつチームにもフィットし始め、
新天地でのさらなるブレイクも約束されているように見えた。
2008年2月23日。
彼のキャリアは暗転する。
バーミンガム・シティのマーティン・テイラーから
悪質なタックルを受けたエドゥアルドは昏倒。
駆け寄るチームメイトの表情から
尋常ならざる事態は容易に想像できた。
左足緋骨の開放骨折と左足首の脱臼。
再起不能という説も出るほどの重傷だった。
誰もが彼の回復と、1日も早くピッチでボールを蹴る日が
来ることを願った。
2010年10月2日。
エドゥアルドはエミレーツ・スタジアムに立っていた。
ただし、見慣れた赤と白のユニフォームではなく
白にオレンジと黒の斜線が入ったユニフォームを纏って。
UEFAチャンピオンズリーググループステージ。
そのシーズンからウクライナのシャフタールへと
活躍の場を移したエドゥアルドは、
移籍後すぐに住み慣れた"家"へと帰ってきた。
64分、交替出場が命じられる。
ピッチへ駆け出した彼へ万雷の拍手が贈られた。
82分、古巣相手にゴールを決めてみせる。
スタジアムはさらなる拍手に包まれた。
しかし、エドゥアルドは決して喜ぶことなく、
そのガナーズサポーターの声援にだけ小さく応える。
おそらくはお互いにそれだけで十分だったのかもしれない。
そこには愛された男の確かな幸せがあった。
メンバー入りを待望された2006年大会に
クロアチア代表選手として参加することは叶わなかったが、
チーム自体が予選で敗退した南アフリカを経て、
初めて臨むワールドカップは母国のブラジル大会。
しかも、開幕戦で対峙する相手も母国。
63試合の代表キャップを積み重ねて辿り着いた夢舞台。
4年前のエミレーツでかつてのサポーターに小さく応えたあの男が、
母国を相手にゴールを叩き込む。
その時に彼が、そして王国のフットボールジャンキーたちが
どういうリアクションを見せるのかは、
個人的にこの開幕戦で最も楽しみにしていたトピックだった。
残念ながら、この90分間でエドゥアルドに
その"64試合目"が訪れることはなかった。
ただ、まだ彼と王国のジャンキーたちに再会する機会は残されている。
7月14日。大会"64試合目"のファイナル。
舞台はエドゥアルドがこの世に生を受けたリオ・デ・ジャネイロである。
土屋
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