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サッカー フットサル コラム 2022年2月28日

ウクライナは隠れたサッカー大国。スポーツの国際交流は多少とも国の安全に寄与するはず

後藤健生コラム by 後藤 健生
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今回、ロシアの軍事侵攻を受けたウクライナはかつてはソ連を構成する15の共和国のひとつだった。そのため、独立国だったチェコ(チェコスロバキア)やポーランドに比べれば知名度は低い。

だが、おそらくサッカー・ファンであれば、ウクライナという国の存在をよくご存知であろう。

ソ連時代はウクライナのサッカーはソ連サッカー協会の傘下にあり、首都キエフの強豪ディナモ・キエフはウクライナの代表チーム的な存在で、ソ連リーグでロシアの首都モスクワの複数の強豪クラブと覇権を争っていた。

もちろん、モスクワのクラブの方が財政力もあり、連邦政府の肩入れもあって有利な状況だったのだが、名将ヴァレリー・ロバノフスキーは運動量とスピードを生かしたチームを作ってモスクワ勢に対抗。1960年代から1980年代にかけて合計13回も全ソ連リーグで優勝を遂げた。この数字はスパルタク・モスクワの12回、ディナモ・モスクワの11回を上回り、ソ連リーグの最多優勝記録として残っている。

そして、ロバノフスキーはソ連代表チームの監督も兼任。ディナモ・キエフをベースとした「ソ連代表」は1986年のメキシコ・ワールドカップで準々決勝に進出(戦挑戦の末にベルギーに敗れる)。そして、1988年には欧州選手権(EURO)では準決勝を成し遂げ(オランダに敗れる)、同年のソウル・オリンピックで金メダルを獲得した。

そのロバノフスキーの秘蔵っ子であるオレグ・ブロヒンはディナモ・キエフやソ連代表で活躍し、1975年にはバロンドールも受賞している。

当時はソ連の傘下にあったため、「ウクライナ」の旗の下でワールドカップ本大会を戦ったのは2006年のドイツ大会だけだが、それでもウクライナはヨーロッパのサッカー大国のひとつだったと言っていい。

1991年のソ連崩壊後に独立したウクライナは経済的に困窮し、また政治的にも不安定化(親西欧派と親ロシア派の対立が大きな原因)。そのためサッカー強化も順調には進まなかったが、それでも2004年には当時イタリアのACミランで活躍していたアンドリー・シェフチェンコがウクライナ人として2人目のバロンドール受賞者となっている。そして、現在もマンチェスター・シティーのオレンクサンドル・ジンチェンコをはじめ、多くのウクライナ人選手が各国のビッグクラブで活躍している。

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